きょんちゃみ

ブラック・クランズマンのきょんちゃみのレビュー・感想・評価

ブラック・クランズマン(2018年製作の映画)
5.0

⑴【早稲田松竹は素晴らしい。】
私はこの映画を、昨日、「早稲田松竹」という素晴らしい映画館のレイトショーを友人に紹介されたので、そこに初めて行き、たったの800円で鑑賞することが出来た。素晴らしい映画体験だったので、この文章を、いま私は書いている。『ブラッククランズマン』を映画館で見ることが出来る最後の機会を私に提供してくれた親愛なる友人にまずは感謝を捧げたい。

ところで、私が好きな場面は、次の場面である。(字幕が分かりにくかったので、私が訳してみた。ちなみに、ここで登場するロンという人物は黒人で、デヴィッド・デュークは白人である。)

David Duke: I can always tell when I’m talking to a Negro.
二グロ(=黒人の蔑称)と電話で話すときには、いつだって、「この電話の相手は二グロだな」と私には分かってしまうんだよ。

Ron Stallworth: How so?
そんなこと、どうやって識別してるんですか?

Duke: Take you, for example, Ron.
例えばね、ロン。君を例にとって説明しよう。

Stallworth: …Me?
え、ぼ、僕ですか?

Duke: Yeah. Now, I can tell that you’re a pure Aryan white man by the way you pronounce certain words.
ああ。私は、いま、とある単語の発声の仕方から、君が純粋なアーリア民族の白人の男性だと識別できてるんだよ。

Stallworth: Can you give me any examples?
たとえばどんな単語から識別してるのか、教えてもらえますか?

Duke: Yeah, take the word ‘are’. A pure Aryan like you or I would pronounce it correctly: ‘are’. A Negro pronounces it ‘are-uh’. D’you ever notice that? It’s like ‘Are-uh… you gonna fry up that… crispy fried chicken, soul brother?’
いいとも。例えば、ビー動詞のareという単語があるだろう。私や君のような純粋なアーリア人種であれば、areを「アー」と正しく発音するわけだ。でも、二グロは、「アーラ」と発音する。いま、違いに気づいたかい?あいつらは、「アーラ」と発音するんだ。セリフにすると、こんな感じかな。「アーラ、君はこれからそのカリカリしたフライドチキンを油で揚げるのかい、ソウル・ブラザー?」みたいな感じさ。

⑵【脚色について】
この映画は、2018年5月14日、第71回カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞した。カンヌでの上映後は10分間にもわたるスタンディング・オベーションが発生し、最高賞であるパルム・ドールではなかったものの(というのも、パルム・ドールは是枝裕和の『万引き家族』に取られたからだ)、その次点である審査員特別グランプリになった。

主人公の黒人刑事ロン・ストールワースを演じたのはデンゼル・ワシントンの息子ジョン・デヴィッド・ワシントンで、そのロンの潜入捜査に協力するユダヤ人の白人刑事フリップ・ジマーマン役は『パターソン』(2016)のアダム・ドライバーである。

この映画は、「実話が元になっている」と強調され過ぎて宣伝されているが、しかし、そうはいってもフィクションではあるので、「史実とここが違うだろ!」と指摘されてはいるが、それを言ってもあまり意味がないと思うので、私はそんなことはしたくない。

例えば、原作では1978年の事件が、映画だと1972年の設定になっているらしいが、1970年代の設定だと思っていればそのへんはアバウトでも大丈夫だと思う(もちろんブラックパワー運動の高揚期とベトナム戦争についての言及が劇中でできたりするから、時期を1972年にずらしたんだとは思うが)。

「実話を元にしたフィクションである」ということは、何を意味するかというと、題材は実話だけれども、そこに様々な、実際にはなかったセリフだったり、人々だったり、脚色を足しているということであって、その脚色がとても面白かったからこそ「アカデミー脚色賞」を受賞しているわけで、それを「こんなもの脚色だ!」と批判することには、あまり意味がないということは誰にでも理解できるはずだ。だって、その脚色が面白かったんだから。(そして、その脚色の本質とは、史実よりもさらに現実味を持たせるために史実ではなくすことなんだから。)

そもそも、脚色が嫌なら、楽しく観れる映画なんか殆ど無いと思う。なぜならば、「実際には無かったことによってのみ伝えられる現実味があるから」であり、その現実性を表現できるのが映画である以上、実話ベースだからといって実話そのものでなくてもまったく問題ないし、実話そのものではないからといって我々にとっての現実味が落ちるということにはまったくならない。史実と違うという批判は無益だと思う。むしろ逆に、脚色によって現実味が上がる場合すらある。そして、「現実味があるからリアルなのであって、実際に起きたことそのままであれば常にリアルだというわけではない」ということも、考えたい(そしてもう少しだけラディカルなことを書いておくと、実際に起きたことそのままを映画にする方法というのは、ない)。往々にして事実は小説よりも奇怪なのであるが、そのこととも独立に、フィクションはリアルにするためにこそ脚色されるべきだと言えるのである。

それと、劇中で語られているジェシー・ワシントン君リンチ事件は、1916年5月15日(『國民の創生』公開の翌年)の事件であり、実在する実話である。だからこの映画は、実話を元にしているのである。この、ジェシー・ワシントン君リンチ事件というのは、レイプ疑惑のあった少年を、街の市庁舎の前で、白人たちが馬で引き回し、生殖器を切り取り、指を切断して、火あぶりにして、吊るし上げにして、見世物にして、焼けて黒焦げになったジェシー君の身体をコマ切れに分解して、

<人々におみやげとして販売した>

という実際に起きた事件であり、その黒焦げの写真はポストカードとして販売されたという。警官などを含む1万人の観衆がこれを見物したらしく、つまり、目撃者は1万人存在している。

これは、マジの実話であるらしい。

私は人間を否応なく思考に追いやってしまうような映画が好きだ。この作品はそういう映画だったと思う。

また現実に強いエフェクトを与えるという意味で、最後に挿入される実際の事件映像もまったく蛇足ではない。このシーンは、善かれ悪しかれ現実に強いエフェクトを与えることに成功した凄い映画たち、すなわち、劇中でも引用されている『國民の創生』(1915)、『風と共に去りぬ』(1939)、『黒いジャガー』(1971)などの、これらのうちのひとつに、自らのこの作品をも加えようとするスパイク・リーの意志を感じるシーンである。そして、だからこそ、最後の映像の挿入には必然性がしっかりとあると思う。繰り返すが、あのドナルド・トランプの映像は蛇足ではないと思う。

⑶【この映画の批評性】
舞台はデンバーの南にある都市コロラド・スプリングズ。ここは、「サンドクリークの虐殺」(1864年11月29日)によって、ネイティブ・アメリカンがかつて殺された場所である。ここにも含みがありそうである。

この映画の冒頭では、『風と共に去りぬ』(1939)の引用があり、アトランタで、南北戦争の南軍が大敗を喫し、負傷兵たちが大量に地面に横たわる中、カメラが引いていくと、奴隷制を採用していた南部の連合旗がはためいているのがフレームインしてくるところで、主人公のスカーレット・オハラが、「神よ、南部連合を救いたまえ!」と嘆くシーンで始まる。ここにも含みがありそうである。

そして、アレク・ボールドウィンが冒頭に白人至上主義の学者ボーリガード博士として出てくる理由は、サタデー・ナイト・ライブというコメディ番組で彼がドナルド・トランプ大統領のモノマネをしている。ここにも含みがありそうである。

最初のロンの仕事は、ストークリー・カーマイケル(Stokely Standiford Churchill Carmichael, 1941-1998)の集会への潜入なのだが、彼は、実在のアメリカの差別撤廃運動の指導者で、劇中の時期とはやや異なるが本当に「クワメ・トゥーレ」と名乗った。あと、1966年に「ブラック・パワー」という概念を提唱したのはまさに彼である。

劇中には、「ブラック・スプロイテーション映画はファンタジーに過ぎなかった」というパトリスのセリフもあるが、『黒いジャガー』もそのリメイクの『シャフト』とか『スーパーフライ』、ジョン・レノンを振った女パム・グリア主演の『コフィー』といったブラック・スプロイテーション映画が、かっこいいポスタービジュアルと共にパトリスのセリフとして引用されてくる。劇中に登場するこの女性活動家パトリス・デュマスのモデルは、ブラックパワーの女性活動家アンジェラ・デイビス(1944-)かもしれないと言われる。アンジェラ・デイビスは刑務所の廃絶主義で有名な人物である。軍産複合体よろしく監産複合体という概念を提唱したのもこの人物であると言い添えておきたい。

そして、問題の『國民の創生』(The Birth of a Nation, 1915)という映画は、D・W・グリフィス監督の1915年公開の無声映画で、「クロスカッティング」、「クローズアップ」、「フラッシュバック」、「カットバック」など編集技術を発明して映画表現の限界を大幅に拡張し、映画の文法を変えてしまった歴史的作品であり、この作品を劇中でスパイク・リー監督が引用する際には、まさしくカットバックされて写るハリー・ベラフォンテと、KKKによる黒人リンチを観て喜ぶ観客たちのクローズアップが映る。この技法を用いてここを撮影したリー監督には、この伝説の作品を相対化していく意図があったのだろう。

この映画『國民の創生』に感化された人々がKKKを復活させたという。それまでKKKの活動が沈静化していた理由は、黒人による投票を制限するジム・クロウ法が出来たことによって黒人の投票を暴力で妨害する必要がなくなって、リンチ集団の存在意義が無くなったからであった。ちなみに、この「ジム・クロウ」という名前は「ブラックフェイス」という、白人が顔を黒く塗って演じる、「差別のためのキャラ」の名前である。「ジム・クロウ法」という人種差別的法律(=黒人に選挙権を認めない)の名前もこれに由来している。

⑷【素晴らしい音楽について】
劇中で流れる音楽も非常に素晴らしい。James BrownのSay it loud, I'm black and I'm proudが流れる。さらに、Looking glassのBrandy(You're a fine girl )が流れて、『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー2』でも同曲は使われていたが、卓越した音楽のセンスを感じさせる。Cornelius Bros and sister rose のToo late to turn back nowに合わせて踊るシーンはまさしくソウル・トレインであった。射撃に興じるシーンで描かれた的が逃げ惑う黒人たちだったことをロンが知るシーンで流れるBlut und Boden(Blood and soil)というメインテーマも素晴らしい。エンドロールでは、アレサ・フランクリンからプリンスへと引き継がれた未発表曲Mary Don’t You Weepが流れる。あまりにも素晴らしい音楽であった。

【Too Late to Turn Back Now】
Cornelius Brothers & Sister Rose (1972)

https://youtu.be/mfYkhQblYjY

My mama told me, she said, "Son, please beware
私の母が、私に次のように語って聞かせてくれたことがある。
There's this thing called love, and it's ah everywhere"
「坊や、どうか気をつけてね。世界には「愛」と呼ばれているものが存在していて、
しかもそれは、そこらじゅうにあるのよ。」と。
And she told me it can break your heart (break your heart)
そして母は、その「愛」と呼ばれるものによって、人は傷つくことがあり、
And put you in misery (it can put you in misery)
みじめな気持ちに突き落とされることさえあるのよ、と教えてくれた
Since I met this little woman I feel it's happened to me
このかわいい女性に出会ってからというもの、その「愛」と呼ばれる現象が、私に生じたらしい。

And I'm tellin' you
It's too late to turn back now
でも本当なんだ。いまさら引き返そうにも、もうダメみたいである。
I believe, I believe,
I believe I'm falling in love
私は既に恋に落ちているらしい。
It's too late to turn back now
I believe, I believe,
I believe l'm falling in love
いまさら引き返そうにも、もうダメみたいである。
私は既に恋に落ちているらしい。

I find myself phonin' her at least ten times a day
気がついたら、1日に10回以上、彼女に電話してしまっていた。
It's so unusual for me to carry on this way
こういうやり方を私が取るのはかなり変なことだ。
I tell you, I can't sleep at night, a wanting to hold her tight
実は、夜にぜんぜん眠れてない。彼女を強く抱きしめたいと思っているんだ。
I tried so hard to convince myself that this feelin' just can't be right
こんな気持ちは、正常なわけがないだろうと、かなり頑張って、自分を説得してみたんだ。

And I'm tellin' you
It's too late to turn back now
でも本当なんだ。いまさら引き返そうにも、もうダメみたいである。
I believe, I believe,
I believe I'm falling in love
私は既に恋に落ちているらしい。
It's too late to turn back now
I believe, I believe,
I believe l'm falling in love
いまさら引き返そうにも、もうダメみたいである。
私は既に恋に落ちているらしい。

I wouldn't mind it if I knew she really loved me too
もしも彼女も私のことを愛していると私が知れたらいいなと思う。
But I'd hate to think that I'm in love alone
でも自分は片思いをしているのだとは考えたくない。
And nothing that I can do, oh
そして私にできることなんか、何もないのである。
It's too late to turn back now
I believe, I believe, I believe I'm falling in love
いまさら引き返そうにも、もう手遅れだからである。私は既に恋に落ちているらしいのだ。
きょんちゃみ

きょんちゃみ