黒川

ROMA/ローマの黒川のネタバレレビュー・内容・結末

ROMA/ローマ(2018年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

物語は広い家の玄関先を掃除しているシーンから始まる。水面に映る飛行機はどこか意味ありげで、水面が揺れその虚像が揺らぐところにタルコフスキーへのリスペクトを感じる。
本作は1970年〜71年にかけての激動の時代にあったメキシコを、モノクロームの映像で描き出す。物語と言ったが、明確な物語は存在しない。印象的な冒頭のあとは、(印象的なシーンは多々あれど)裕福なスペイン系の一家とその家政婦の数ヶ月をひたすら映すだけなのだ。そんな映像は退屈なようで、だが我々の何気ない日常も「物語」を持ち合わせることを示唆する。これは一つの家族の喪失と再生を綴ったれっきとした「物語」なのだ。そこにビスコンティの「山猫」を思い起こす。

一家の父親は学者なのだろう。長い出張から帰ったあと、またケベックの学会に行かなければならないと言う。同じ頃、家政婦のクレオには親しい男ができる。主人の留守に妻が違和感を覚えた時、彼女の妊娠が発覚する。

キュアロン作品は「トゥモロー・ワールド」と「ゼロ・グラビティ」しか観ていないが、どちらも喪失と再生がテーマだと思われた。前者は子供の生まれなくなった世界を、後者は死の空間に閉じ込めらた宇宙飛行士の地球への帰還を描く。海の上で子は産まれ大きな船に救われ、宇宙飛行士は羊水のような海に着水し波にもまれながら浜辺へと運ばれる。本作でも海は重要なシークエンスだった。母なる海は死であり恐怖であり破壊者でもある。監督にとって、海から生還することは生まれ変わりを意味するのだろうか。

メキシコには行ったことがないが、気になる国の一つのだ。11月2日の死者の日は日本で言う盆に当たるのだが、街中が骸骨で埋め尽くされ、先祖の亡骸を着飾らせて街を練り歩く地域もあるという。今でもマフィアが横行しているところがあり、見せしめに殺された人の死体がその辺りに転がる写真をよくネットで見かける。生と死がごった返すような国、それが僕のメキシコに持つ印象だ。生と死は日常で肉薄するのだ。女性は子を生み育てる性だ(語弊があるが、その当時はこのような考えが一般的だっただろうから敢えて言う)。昔から死と乙女が画題として珍重されてきたのは、生(を授ける者)と死の表裏一体を表すのにもってこいだからかもしれない(うら若き乙女の美しさと腐乱死体の醜さの対比というまた別の理由もあるのだろうが)。男どもが姿をくらましても、女達は子を守らねばならない。女の持つ母性と守られる子は監督のテーマなのだろうか、母の強さの前に男は手も足も出ないという描写が多い気がする。
クレオはベビーベッドを買いに行った先で暴動に巻き込まれ、子供の父親であるフェルミンに銃を向けられる。殺されはしなかったもののショックで破水し、腹の中の娘を死産した。家具屋に逃げ込みそのまま殺される男、道端で銃撃に巻き込まれ息絶える若い男と傍らで助けを求めるその恋人。臥裸婦像は画になるが、男性のそれは死を描くという主張を読んだことがある。女性の裸体は起伏があり動的であるのに対し、男性は凹凸がなく静的なのだ。横たわる男性はなるほど、死んでいたり、苦痛に顔を歪めるものが多い気がする。戦いに破れ、あるいは神罰が下った者たち。フェルミンは得意の武術を見せようと裸になっていた。鍛えられたその身体は地に伏すことはあったのだろうか。妊娠した女を脅し逃げた彼は罰せられたのだろうか。下人の行方を誰も知らないように、彼のその後は藪の中だ。映画が始まってすぐクレオがデートに行こうと前を通った店のディスプレイに描かれた骸骨と、妊娠を打ち明けたあと姿を消した男を探す映画館の前で売られていた骸骨のおもちゃ。死はいつでも誰かを分とうと手をこまねいている。死で以て分かたれようとした雇い主家族を救うことができたのは、死で以て娘と分かたれた家政婦だった。

初めの方で一家の末っ子が、「大人になっから(過去形と未来形が混在した表現だったのだろう)、飛行機の操縦士だった」というようなことを言っていた。最後の方で彼は大海を臨み「生まれる前は船乗りだったけれど波に飲まれた」と言った。人の心や状況は移ろう。一家の父親やフェルミンのように人の心は変わり、金の工面のために夫の愛車であったギャラクシーを妻(そして同時に子供の母でもある)は売る。状況もすぐに移ろうのが我々の生きる物語だ。淀みに浮かぶ泡沫とはよく言ったものだ。水鏡のように虚像は虚像として形を変え、そして水はまたどこかへ流れる。

何の話してるんだ俺は。
とりあえず余韻がすごい。良かった…映画館で見られて幸せ。キュアロンは21世紀のタルコフスキーや(個人の感想)…
黒川

黒川