ずどこんちょ

楽園のずどこんちょのレビュー・感想・評価

楽園(2019年製作の映画)
3.1
いろんな事件が組み合わされていて要素てんこ盛りなのは、吉田修一さんの短編小説の2つのエピソードが一つの映画に合わさっているから。
どちらも、ある昔ながらの田舎の村を舞台にした事件でした。

一つは12年前に起こった少女の失踪事件です。
村人たちの必死の捜索も虚しく、少女の姿は見つからないままでした。彼女と最期に言葉を交わした友人の紡は、その日、彼女の誘いを断ったことなど自分だけが生き残ったことに罪悪感を抱えたまま生きていました。
事件現場はY字路の分かれ道です。紡と行方不明になった愛華はそれぞれ左と右に分かれて家路につきました。たまたま犯人が潜んでいた道が愛華の道の方だったのです。もしも立場が逆であれば、自分が被害に遭っていたのかもしれない。Y字路が分けた生死の運命に、残された紡が重たい責任感を感じるのも仕方ありません。生き残った方には自分の身代わりになったという重責が残るのでしょう。
しかし、村は小さい。紡が生活する世界には、被害者の家族もいるのです。申し訳なくて胸を張って生きることもままならないのです。

そんな中、新たな失踪事件が発生。幸い、事件は解決しましたが、その時、12年前の失踪事件の真犯人として、村に移住していたフィリピン系の母子の息子が槍玉に上げられるのです。
青年・豪士は村人たちから追い詰められます。警察に通報することもなく、ただ「怪しい」という何の根拠もない疑念だけで無断で豪士の自宅に押し入る村人たち。そんな恐ろしい村人たちに追われたら誰だって逃げ出します。豪士は自ら灯油をかぶって、焼身自殺を図ってしまうのです。
小さな村で誰か一人が声を発すれば、根も歯もない噂であっても同調して拡大していく閉鎖的な田舎の恐ろしさを感じます。
もっとも実際はこんなにひどくはないでしょうが、真犯人として指名されたのが日本人ではないというのも、異文化に対して排他的な思想を持つ年寄りが多いこの国にはありそうなことに感じてしまいます。
この辺りは、田舎に住む外国人の生きづらさみたいなメッセージも含んでいるように思いました。

もう一つは、同じ村の丘の上にある限界集落で起こった村八分事件です。養蜂家の田中善次郎は地元出身で都会から戻ってきました。
村人のため、仕事も仕事以外のことでもなんでも尽くす善次郎に年寄りばかりの村人たちは感謝していました。
ところが、とある行き違いが原因となって善次郎は寄り合いの住民を中心として、村中から無視や嫌がらせを受けるようになってしまうのです。
村八分は閉鎖的で互いの距離が近い環境だからこそ起きる制裁です。住民トラブルこそ全国どこでも起こり得ますが、住民全員が結託して嫌がらせをするのは村ならではの幼稚な愚行。
善次郎がこの村から出ていけば話は済むのですが、善次郎にもこの村から離れられない理由があります。次第に優しかった善次郎は、養蜂の仕事も辞めてしまい、精神の狂ったような生活を始めるのです。
そんな中、ある凄惨な事件が起こるべくして起きてしまいました。

どちらの事件も、村という小さくて閉鎖的な環境で、「排除」された人たちが苦しみを抱えています。
紡や広呂のようにそこから逃げ出す若者もいます。しかし、豪士や善次郎のように様々な事情を抱えて逃げ出すことができない人もいます。
閉鎖的な空間の人間関係が悲しい事件を引き起こすことは、おそらく遥か昔から何度も繰り返されてきたはずです。それでも人は学びません。
いや、豪士が焼身自殺を図った時に愛華の祖父が「これでケリがついた」と思ったように、田舎で起きた物騒な事件の不安感を抑え込むには何かきっかけが必要で、そのきっかけ作りを意図的に発生させる人もいるのでしょう。恐ろしいことです。

楽園のイメージは、人々が笑顔で穏やかな気持ちであり、自由で開放的な空間です。
およそ楽園と呼ぶには程遠い、小さな集落で起きた二つの事件。
彼らの作っていた安心感は、特定の誰かを排除することと、「不審者注意」の看板や子供に悪戯されるような警報器によるもので、どう見てもハリボテで作られた偽りの楽園でした。