ナガエ

ジョーカーのナガエのレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
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「悪」というのは個人の問題ではないと、いつも感じる。
ニュースで何か事件が報じられる。確かに、最終的な犯罪行為を犯した者は悪い。罰せられるべきだろう。しかし、その人だけが悪いのか、というと、決してそうではない。そこに至るまでの過程が必ずある。しかし、その過程は、なかなか見えない。何故なら、「悪」として顕在化するまで世間はその人に関心を持たないし、「悪」として顕在化すれば、それ以降「悪」のフィルターを通じてしかその人のことを見ないからだ。

「善」は単独でも存在しうるが、「悪」は単独では存在できないと思う。「善」は、「善」を生み出す環境が周囲になくても生まれうるが、「悪」は、「悪」を生み出す環境が周囲に無ければ、そうそう生まれないだろう。例外はあるだろうが、「悪」は環境依存型だ、と思う。

誰だってきっと、「余裕」があれば他人に優しく出来るはずだ。他人に優しく出来ないのは、どこか余裕がないからだ。この映画では、主人公と対比させるものの一つとして「富裕層」が描かれる。確かに、お金を持っていること、というのは、「余裕」のあるなしを論じる上で分かりやすい。分かりやすいからこそ、お金があれば「余裕」もある、と結論づけたくなるし、だから非難したくもなる。しかしきっとそうではない。仮にお金があったって、何か別の部分で「余裕」が失われていれば、誰かに優しくできなくなってしまう。

少しだけ、「余裕」がない。その積み重ねが、「悪」を生み出す環境になり、誰かを「悪」
へと染め上げていく。繰り返すが、「悪」をもたらす人間は悪いし、断罪されるべきだ。しかしその人はきっと、その環境にいなければ「悪」をもたらさなかっただろうし、僕がその環境にいたら、自分こそが「悪」をもたらす人であったかもしれない。

そういうことを、いつも考えてしまう。

時々、SNSにアホみたいな写真を載せて、アルバイトをクビになる若者が出てくる。それを見て、「今の時代の若者は…」と思ってしまう気持ちは分かる。しかし一方で、SNSが当たり前に存在している時代に学生をやっていたら?と考える。僕の学生時代は、SNSが大きく流行る直前ぐらいだった(当時一番人気だったのは、恐らくmixiだったはず)。自分の学生時代にSNSが当たり前に存在していれば、彼らと同じような愚行をしていたかもしれない。少なくとも、「絶対にしなかった」とは言い切れない。そして、SNSでバイトをクビになる若者だって、同時代にSNSが当たり前に存在しているんでなければ、あんなアホみたいなことをしなかっただろう。

「悪」は、気づかぬ場所で凝縮して、時々僕らの目の前に現れる。それは、結果だけ見れば、個人の中で凝縮するし、社会はその責任を個人に負わせる。しかし、その「悪」を生み出す環境は、僕ら全員が少しずつ寄与しながら作り上げているものだ。そのことを忘れてはいけない。もし、自分のすぐ近くで「悪」が生み出されたとすれば、自分の寄与がどういうものだったのか、冷静に分析しなければならない。

個人を断罪したところで、「悪」は消えない。「悪」は環境に偏在するものだから。

内容に入ろうと思います。
アーサーは、ピエロメイクの大道芸人を派遣する会社に所属して生計を立てつつ、年老いた母親の世話を一人で見ている。母親は、今度市長選に出馬するかもしれないという街の大物に手紙を出しているのに帰ってこないと嘆いている。30年前、その人物の屋敷で働いていたことがあるから、自分達の窮状を知れば必ず助けてくれるはずだ、と信じているのだ。
アーサーは、時に少年たちにからかわれてボコボコにされながら、ピエロの仕事に誇りを持っている。実はコメディアンを目指している彼は、人を笑顔にすることを無償の悦びとしているのだ。しかし、現実は厳しい。彼は、脳と神経の障害によって、突発的に笑ってしまうという障害を持っており、そのこともあってなかなか真っ当な人間関係を築けないでいる。心優しく、常に誰かを笑わせたいと願っているアーサーは、しかし、都会の片隅で邪険に扱われる日々を送っている。
彼は日々、必死に真面目に努力し、この生活から抜け出そうとしているのだけど、同僚の”余計な親切”がきっかけとなって、大好きなピエロの仕事が続けられなくなってしまう。その夜、帰り道、彼は一線を踏み越えてしまうが…。
というような話です。

僕はそもそも大前提となる知識を持たずに映画を観に行ったんですけど、この「ジョーカー」っていうのは、「バットマン」っていうアメコミに出てくる人気のあるダークヒーローで、この映画は、「ジョーカー誕生秘話」という性格のものだったようです。全然知りませんでした。この映画は、予想に反して大きな反響を呼び起こすことになったとよく聞くけど、そもそもベースとして、そういう人気シリーズのキャラクターを描いている、というベースがあったんですね。なるほどです。

この映画はとにかく、「凄かった」としか表現しようがないな、と思います。普通は「面白かった」「つまらなかった」「泣ける」「ドキドキした」みたいな評価が先にきて、その跡で「凄かった」みたいな表現が来るんだろうけど、この映画は、とにかく「凄かった」な、と。

さっきも書いたように、僕はこの映画が、「悪役として非常に有名なジョーカーというキャラクターが、ジョーカーになる前を描いている」という大前提を知らなかったんで、とにかくいろんなことがよくわからないまま進みます。
一つ、僕が最後までうまく捉えられなかったのが、彼らが置かれている街の現状です。

冒頭、ラジオ(orテレビ)で、「毎日1万トンのゴミが街に放置されている」「スーパーラットが大量発生」「市民の不満が募っている」というような、彼らがいるゴッサムという街の現状が語られます。でそれからも、とにかく街全体が殺伐とした感じになっている。

少なくともこの映画だけ見ていると、ゴッサムという街がどうしてそういう状況にあるのか、ということは、全然語られないように思います。これは、「バットマン」シリーズを知っている人であれば当然の情報なのかもしれないし、あるいは敢えて描かなかったということなのかもしれないけど、とにかく街には不平不満が充満していて、ちょっとしたことで暴動が起きかねないような、そんな雰囲気の中に彼らはいます。

そういう中にあって、アーサーは、必死に真っ当に生きようとする。彼は、唐突に笑ってしまうという発作が起こるので、特に初対面の人には不気味さを与えてしまうのだけど、彼自身は別に、誰かに危害を加えるつもりもなければ、むしろ、有効的に相手を笑わせて、それによって自分の存在価値・存在意義みたいなものが感じられたら素晴らしい、と考えている。しかし、彼のその望みはなかなか叶わない。市のケースワーカー(みたいな人)に、「自分は存在していないような気がする」という悩みをいつも話すものの、ケースワーカーが自分の話をちゃんと聞いてくれている感じもしない。きっと彼には、要領よく生きている人間は恵まれ、真面目だけど要領の悪い人間は損をする、というような不公平さみたいなものを感じていただろうと思う。

しかしそれでも彼は、孤独に絶望しながらも、真っ当さを自ら手放そうとはしないのだ。

きっかけは、本当にちょっとしたことで、しかしそれが彼の考えを大きく変えてしまうことになる。ここからの展開は具体的には書かないけど、彼の行動が、街の雰囲気を変え、その変化が次第に彼を生まれ変わらせていく。それまで自分が受けてきた仕打ち、我慢してきたことが、一気に凝縮して噴き出すようにして、彼は狂気へと突き進んでいくことになる。

映画を観ていて感じたことは、失うものがない人間は「悪」を躊躇しない、ということだ。

以前テレビで、刑務所の受刑者たちに盲導犬の訓練をさせるというドキュメンタリーを観た。日本ではなく、どこか海外だ。彼らは、相棒のように正面から関わらなければ盲導犬として一人前に育てることが出来ない子犬と関わることで変わっていく。それは、「失うもの」が出来た、ということなのだと思う。

アーサーにとって失いたくないものは、母親だった。彼にとって母親というのは、大きな意味を持つものだ(理由がはっきり描かれているようには思えないけど、彼の態度からそれが分かる)。しかし、とあるきっかけから、アーサーの中で大きな変化が生まれる。そしてそのことで彼は、「悪」への躊躇を無くしたのだろう、と感じた。

あまり詳しくは触れないが、アーサーは妄想癖もあるようで、実際に最後まで映画を観ていても、「これは現実だったのか、あるいは妄想だったのか」と確証の持てない場面もある。現実と妄想がシームレスに描かれていて、そういう演出も、観ていてドキドキさせられる部分だ。

「善悪の判断は主観でしかない」というような訴えをする場面があって、それは確かにその通りだなと感じさせられたし、いつだって自分が「悪」側に踏み出しうるということを改めて実感させられる映画でもありました。
ナガエ

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