きょんちゃみ

運び屋のきょんちゃみのレビュー・感想・評価

運び屋(2018年製作の映画)
4.4
【運び屋について】

電気グルーヴのピエール瀧が、コカイン使用で逮捕されたので、それではコカインが出てくる映画を観ようと思って、これを想起した。

ゆっくりと動く老人の身体を描いた映画といえば、デヴィット・リンチの映画群、たとえば『ストレイト・ストーリー』(1999)なんかが有名だが、あのようなものが観れるのかなと思って鑑賞してきた。

ニューヨーク・タイムズ(https://www.nytimes.com/2014/06/15/magazine/the-sinaloa-cartels-90-year-old-drug-mule.html)によると、レオ・シャープ(1924-2016)はインディアナ州で生まれ、高校を卒業してからアメリカ陸軍に従軍し、第88歩兵師団に所属し、第二次大戦のイタリア戦線で叙勲され、退役してからはミシガン・シティーの近郊で、デイリリー(=開花してからたった1日で枯れてしまうゆりの花)の栽培の達人となった。ちなみに、「レオ・シャープ」という名前がついたゆりの花の新種まで存在するし、180種類以上の品種が彼の名前で登録されている。彼は、ネット通販の発達によってゆりの花が売れなくなったので困窮し、2009年からメキシコの犯罪組織シナロア・カルテルの運び屋となった、という異様な経歴の男である。レオ・シャープは、635キログラム以上ものコカインを、アイオワナンバーのリンカーンのピックアップトラックで密輸した。まったく犯罪歴の無かった老人であるから、警備の目をかいくぐりやすかったらしく、一度捜査官は彼と遭遇しているのにも関わらず彼を捕まえられなかったという。彼は、刑務所に入り、92歳で死亡した。DEA(アメリカ麻薬取締局)の捜査官ジェフ・ムーアに盗聴・追跡されてレオが最終的に逮捕されたとき、彼は、87歳だった。ちなみに、そのときの映像もネット上で公開(https://www.nytimes.com/video/magazine/100000002931771/arresting-an-87-year-old-drug-mule.html)されている。ピックアップトラックから、耳を片手に当てて、耳が遠いことをアピールしているのが彼である。彼は、なぜコカインの密輸をしたかについて「ゆりの花とコカインは人々を幸せな気持ちにするものであるから」と供述している。裁判官に懲役刑を言い渡されたとき、彼は「それじゃあ、死刑判決と同じだ」とジョークを言った。



成熟した犯罪カルテルというのは、反社会勢力のように見えて、実際には、異様にその社会の特徴を増幅した戯画である場合が多い。実際に主人公アールは、メキシコ麻薬カルテルを「ナチスのようだ」と評していた。ファミリーの強い結束によって成立している動物的社会のパロディーのようなものである。反社会勢力の社会性は往々にして強く、会社などよりずっと窮屈な上下関係があり、複雑な組織構造がある。

『悪の法則』や『ボーダーライン』のような映画群においては、メキシコ麻薬カルテルを少しでも舐めたやつは絶対に許してもらえない。舐めた行為には必ずそれ相応の報復がある。絶対に調子に乗ってはいけないのだ。これくらいなら許されるかな、という行動は絶対に許されないし、全体の組織の構造が見えてない馬鹿なやつは瞬時に殺されるか、使い捨てにされて殺される。しかも、登場する人物のほとんどが全体の構造が見えてないので結局いずれは殺される。

メキシコ麻薬カルテル映画は、動物的社会の厳しさを戯画化して教えてくれる。メキシコ麻薬カルテルには、悪いことをしたら、決してその報復から逃げることはできないという対称性があり、この対称性は人間にとって根源的なものだから、この映画を見ている人間たちは気持ちよくなる。「奢れるものは久しからず」という教訓がこれほど徹底される世界もない。最低なことをしたやつの死に方は必ず最低である。

しかし、この映画『運び屋』において、こうした対称性は破れている。なぜなら、この映画の主人公は、社会の外部に飛び出してしまっているからである。

一般に、老人というものは、社会の外部に飛び出してしまう。通常は身体組織の老化がこういう場合にうまく機能するのだが、この映画の主人公は残念ながら元気だった。それゆえ、「俺はもう死ぬんだから」というマインドができ上がった人間は、この言葉の本来の意味で無敵である。他の誰かが「死に行く者」の敵になることはできないからだ。「誰にでも勝てるほど強い」という意味では全くなくて、誰も彼の敵になれないので敵がいないという意味で無敵なのである。実際アールは、どんなギャングを相手にしても彼らが全然相手にならないし、ギャング達も彼にだけは敵わないことを何度も思い知らされる。

死を目の前にした老夫婦の表象が体現する「人間の尊厳」と「死が近づいてくることの不可抗性」は、両方ともあの場面でその極限に達し、もはや救いようがないと同時に、それまで犯してきた罪が全て許されざるをえない。なぜなら、彼のやってきた罪すらも愛すべき人生の一コマとして愛しうるからだ。また同時に、社会での功績など消えざるをえない。その社会がこれから消滅するのだから。

ことほど左様に、人間が人間たる所以がこれでもかと露出してしまうのが、人間が死に対する場面である。なぜなら、死は、世界から自分が旅立つことを意味するのでは全くなくして、自分がその中で存在するような世界が自分ごと彼方へと旅立つことを意味するからである。

そして、こうした恐るべきことを表現しようとするイーストウッドの画面作りはひたすら軽やかだ。つまり、若い。こんなに重いテーマなのに画面作りが重くならないところが異常である。『グラン・トリノ』におけるコワルスキーよりも、アールはずっと軽やかなのだ。あえて僕は以下のように言おう。

【この映画の美しさは、ミニマリズムである。いかなる意匠も余計である。ただデイリリーと尻を撮って軽やかに消えればそれでよろしいのだ!】

暴力は、悪である。少なくとも、イーストウッドはそう思っている。たとえそれが誰かのためを思っての行動であっても、暴力を振るってしまえば、定義上、取り返しのつかない結果を引き起こすからだ。その意味で、暴力は決定的であるし、決定的でなければならない。イーストウッドは、いつも暴力的な役、暴力の代名詞の様な人間を演じてきたし、暴力の描写もとてもうまい。イーストウッドは暴力的にしか振る舞えない役を演じることばかりなのに、暴力が大嫌いである。だから必然的に、暴力を「暴力的な誰か」の問題ではなくして、自分の問題として自分に引きつけて考えざるを得ない。彼は、誰よりも暴力の痛み、恐ろしさを恐れている。なぜなら、それは自分の問題だからだ。彼はおそらく実際に何度も拳銃を撃ち、ひとを殴ったことがあるし、その痛みも悲しみも何度も演じてきた。だから、暴力を振るう感触を、痛みを、触覚的に覚えている人間なのだと思う。(北野武にも似た構造があって、北野武は暴力が誰よりも嫌いなのに、暴力しか取り柄のない人間、あるいは暴力によってしかコミュニケーションを取れない人間の描き方がうまい。というか、彼の場合は彼が本当にそういう人である。)。この意味で、イーストウッド映画におけるイーストウッドは、いつも悪人であり、悪人でなければならない。そしてそいつが実は善人であることを示すセリフなどは全く余計であって、あのデイリリーが一瞬映るだけでも十分過ぎる、すなわち、やり過ぎなほどなのである(実際、デイリリーのアップで始まり、デイリリーを植える映像で終わるのがやり過ぎだという意見があるかもしれない。)しかも、「アールが本当は善人である」という発言は野暮であるし、事実でもないし、そう発言するのは倫理的にも政治的にも正しくない。だから、アールが「あなたはレイトブルーマーね」と言われるところで一瞬映るデイリリーは、アールの良心と家族への愛の象徴であり、ほんのわずかなアールへの同情の余地である。そしてそれは、こうして言葉にすることすら禁じられねばならない。だからデイリリーは1日以内に枯れねばならないのだ。

余談だが、頑固者の譲歩(『坊ちゃん』)と世界からの退場(『こころ』)を描いているという点では、漱石文学とイーストウッド映画は似ているのかもしれない。「ガラパコス携帯がまだ使えるのに」と言いつつスマホに乗り換えて行くイーストウッド。「ニグロ」という言葉を修正し、「ギャル」という言葉を修正していくイーストウッドの表情には、そういう味がある。無断で逃げた自分のような軍人は射殺されて当然だから早く撃てと居直るアールは、日々忙しくボスにこき使われている社会人ギャングたちに、またも譲歩している。


21世紀の現代の状況において、社会が人間的で、その外部が動物的なのだ、という古典的な図式は間違っている。

むしろ、社会は動物的で、その外部が人間的なのである。社会は市民ではなく、群集によって組織されているからだ。群れると動物になるぞ。人間は社会的動物ではなく、群れる動物である。人間は、むしろ動物的社会を組織する。


【補足】
「社会を組織するのが真に人間的なことだ」というクソみたいな意見があるから、そういう考えへのアンチテーゼとして、この映画評を書いてみた。

だって、社会だったらメキシコ麻薬カルテルだって組織してるし、それは動物的だと思う。

そして動物、例えばサル山のサルも、メキシコ麻薬カルテルのようなものを作ることがあると思う。


今の時代は、高速で流れていく社会の流れに抗うこと、動物的な社会に抗うことのほうが人間的なのであって、社会は別に人間的じゃないし、社会を作ることも別に人間的じゃないと思う。


それが俺の言いたいことだ。
きょんちゃみ

きょんちゃみ