倉科博文

蜜蜂と遠雷の倉科博文のレビュー・感想・評価

蜜蜂と遠雷(2019年製作の映画)
3.4
原作未読
昨年の11月から、ずっと劇場で観たいと思っていた作品で、いつも行っている劇場では12月の中旬あたりで上映終了の予定だったので「残念だけど観れなさそうかな」と思っていたら、まさかの公開期間延長により観る機会に恵まれた作品。

【総評】
映画において「音楽」ましてや、音楽の「天才」をテーマとして扱うことの難しさは論を待たないと思うが、この作品に関しては、その難しさをブレークスルーした作品として前評判が高かったので、期待に胸を高鳴らし劇場へと足を運んだ。

結論としては、もちろん作品としてのクオリティが低い映画では無いのだろうけれども、僕の肌感覚にはあまり合わないものだった。

まず、初っ端からメタファーとしての馬の使い方が気持ち悪くて仕方なかった。
全体を観終わってみれば、劇中で雨を効果的に使っているのだから、それこそ、雲間の稲光をメタファーにすればいいのでは?
馬の用い方が唐突だし、リアルかつ艶やかな馬が作品のトーンから変に浮いてしまうし、劇中で必死に馬の意味や必然性を探ってしまい、正直ノイズでした。

あと、やはり、ホールで本当の名演に立ち会った時に感じる、「楽器」と「音楽」が命を与えられた別の生き物のように振る舞い始め、奏者とコミュニケーションを取っているかのように感じる不思議な感覚は、役者と音楽がバラバラな「映画」という表現とは食い合わせが悪く、この「蜜蜂と遠雷」をもってしても克服しているとは言い難いというのが率直な印象です。
それでも、他の映画に比べて悪いということは全然無く、むしろそこに果敢に挑戦している俳優陣たちには素直に賛辞を送ります。

【俳優】
主役となる4人の俳優陣の演技はいずれも素晴らしく、本作のリアリティを支えていたように思う。
特に、森崎ウィンと新人である鈴鹿央士の演技は、生来のキャラクターとも相まって素晴らしかった。
でも個人的には、鹿賀丈史はちょっとダメだったかな。

【構造】
主人公たちの成長と内面を演奏される音楽で表現すること自体は成功と言えるかも知れない。
それだけ、音楽自体は迫力もあり素晴らしかった。
なので、やはりこの映画は劇場で見るべきだと思う。

願わくば、個人的には、本戦で「葛藤や苦悩」及び「それに対する克服」を描くのであれば、その解決に至る過程でニ短調の調性をもつ大曲を持ってきて欲しかった。
例えば、ラフマニノフのピアノ協奏曲3番か、モーツァルトの20番でもいい。なんなら課題曲でなくても、なんらかのシーンでバッハのシャコンヌ、ベートーベンのテンペストや、なんなら臭すぎるが第九でもよかったから使って欲しかった。
やはり、曲中においてニ短調からニ長調に至る転調は、黒雲が晴れて雲間から陽光が差すような神々しい輝きに満ちている。
鈴鹿演じる塵がバルトークを奏するのに違和感を覚えたのは僕だけか。あれか、プロコフィエフのどちらかをラフマニノフに差し替えてもバチは当たらないと思うがどうだろう。

【構成】
この作品のエッセンスを言葉にするなら、「三本の矢」ならぬ「四本の矢」、いや「四本の弦」か。
三和音から四和音になることで、メジャーコードもマイナーコードも併せ持ち、むしろそれらを呼応させた大人な和音となることができる。
それは、人生の艱難辛苦を経験し、酸いも甘いも噛み分けるような成長を想起させる。

物語の骨子としてコンクールがあるので、物語の推進力としては文句の付けようがない。
ただ、松岡茉優演じる栄伝亜夜に起こる成長の遅滞と覚醒が急すぎて若干興醒めか。

ちなみに、タイトルの「蜜蜂と遠雷」。
遠雷は世界に対するメタファーだったと思うが、蜜蜂とは何だろうと思い調べたところ、主人公の一人である塵があのコンクールから「蜜蜂王子」と呼ばれることに由来するようで。
確かに劇中で、父親が養蜂家と言っていたし、名前が央士だものね。