8637

ウィーアーリトルゾンビーズの8637のネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

映画好きが自分のオールタイムベストの作品に懸ける思いは何よりも強いだろう。
この評論はめちゃくちゃに長文になる気がする。なにしろ、僕のオールタイムベストである。

オールタイムベストとTwitterの方では何度も煽っていて、今までも劇場で6回、その他の媒体で3回、そして監督の熱意による夏休み最終日の1日限定の無料配信時に3回を観てきた。
だけどこの映画の感想をまともに書いた事が無かった。
今回感想を書くにあたって勿論本編は見直し、ノベライズ・パンフレット・サントラも再度一周した。

なんだけど、今回はあんまりハマれなかった。否、忖度せずに言えば、普通に「面白い」止まりくらいだった。
それもそうだろう。もう13回目だし。それに...
「平均年齢13.5歳!」といとうせいこうが叫んで言う。もちろんリトルゾンビーズのこと。僕はこの間14歳になり、人生最大の困難を乗り越えた頃の彼らの年齢を超えた。なんだか、僕よりも若いヒカリたちには共感できなくなってしまった気がする。コロナ禍で学校の基軸でさえも分からなくなったからかもしれないけど。
公開当初は12歳と半分。歳こそ離れていないが、"自立"していく彼らと願いを叶えていく長久監督の映像に憧れを感じていたから超刺さったのかもしれない。
だから、大人になってからこの映画を観ていたら、きっとハマっていなかっただろうな。。令和のはじまりに公開してくれてありがとう。
だけど「もうこの映画観ても退屈だしな」ときっぱり諦める気はない。今でもこの映画は僕のオールタイムベスト。


何故オールタイムベストに選んだのだろう。
ここから少し個人的な話が続く。

本作の公開日・2019年6月14日の事はよく覚えている。まだ夢は叶うものだとか思っていた中学1年生。今では笑える程の微々たるいじめに苦しんでいたり、曽祖母がもう少しで亡くなってしまうと母から聞いたり(実際に約2ヶ月後逝去)で久しぶりに大号泣していた。親への愛は知らないが、祖父母の家に行けば曽祖母とはいつも話していて、好きに部類できる存在だった。この映画はその時の葬式の手引きにもなってくれていた。
話は遡り2017年春。まだウイルスの蔓延もない為、月に一度は渋谷の映画館を廻ってはチラシをかき集めていた。椅子もあるユーロスペースで休憩していると、自販機に貼ってある「そうして私たちはプールに金魚を、」のポスターを父が見つけ「これ評判良いらしいね」と言っていた。しかしその時はまだ観ていない。思えば、劇場で観るチャンスを失っていた。
1年後、何らかの弾みでYouTubeで「プー金」の予告を調べてみたらなんと本編があって、観てみたらなんかハマって。まだ小6だった。(こちらも20回程度視聴済み)友達と映画を撮っていた僕は「プー金」のスタイリッシュで新しいショットを真似ては失敗して、なんだかんだで一人だけ楽しんでいた。
この映画は定期テスト(上映開始から一週間後)が終わったら即座に観に行った。ゾンビ映画好きの親友(転校済み)はその映画の事を知っていたが、「ゾンビ映画じゃなかったよ」と訂正しておいた。
本当は最寄りのチネチッタで観る予定だったのだが、本質を大事にしていたあの頃の自我が邪魔をし、そのチケットをキャンセルしてまでメイン館のTOHOシネマズ シャンテまで観に行った。今思えば、チネチッタでも一度は観ておくべきだった。


【ここからやっと本編の話をします】

ファーストカットからまず驚かされる。広告では見ていたあの青い葬儀場ショットを始めに持ってくるなんて。
そしてシネスコでこの画の色。鮮やかでフィルムのようで、ゲームのようでもある。僕に一番しっくり来る映像作品の色だ。
更に潔いほどに大きい効果音は、映画に初めてASMRを導入したような感触もある。

子供たちの笑顔にはいつも手が施されている(作り笑い)のを感じる。本当はあのイクコの眼のように秘めた恐さが主で覆っている。
取立て屋に無意味な小さな反抗をする部分に切なさを感じたりもする。「子供なんだから自由でいなさいよ」とは言われるが、責任問題も分かってない子供は道理で誰か大人の言いなりで支配下にあるのだ。
「パパはいろんな人に、部下とか、上司とか、友達とか、"彼女とか、ママとか"」ママがいるのに"彼女"もいるわけで。そんな感じで、子供は大人をちゃんと分かっている。子供を経験した大人になら共感できるはずなのに、忘れてしまっているのだろうか。

僕は今絶賛思春期中だが、どうして反抗による親離れを行ってしまっているのか、全然検討がつかない。

シャンテで初見の私は、ここからの音楽的な迫力に、またも心を掴まれていく。

「エモい」を否定されるってたしかに苦しいかもしれない。僕なんかは感情でしか生きる道を選択できないのだから、人類に普遍的にある"emotional"を古臭いものとする現代の子供たちは、、、未来が楽しみである。

少しだけ自分の話に戻るが、本作の大ヒット記念での監督と池松壮亮氏の対談付き上映に行った時(渋谷で火曜のレイトショーだったけど、行けた!)、池松は「"ごめん"の連発はアドリブだった」と言っていた記憶がある。結局あの時ゴミ袋にぶつけた怒りも、自分が勢力に負けたから怒っただけなのに。

「大人なりたくねぇ」とはいつも思っているし、子供が大人に変わるなんて思えてない。まだ、生まれ変われないとなれない産物だと思っている。そしてクライマックスでも『「みんなならどうする?」「それは自分で決めなよ」』という会話がある。大人を舐めきる子供に認められる大人になるためには成長が必要で、親に任せっきりになっていた(盲目的)ヒカリの成長譚の涯てとしてのとても良いラストだった。それは親が悲しまない方の自立。

"サア ボウケンガ ハジマリマス ナマエハ ナニニ シマスカ?"
今となってはありきたりな展開かもしれないが、まだ映画を観てきた経験が浅い自分、そして答えのない学校という集団での問答に悩む自分にとって、救われるエンディングだったことを覚えている。

あとエンドロール後に唖然としてたわ。。


日本の未来は、この映画が描いた方向へ向かっているだろうか。


「再度観たらハマれなかった」なんて前置きをしておいて、しかもうろ覚えの疎い言葉で、ずっと褒めてました。でもそれくらい好きな映画です。「でした。」なのかな。


全編子供たちのモノローグなので今考えると聞き取りづらく、誤解してしまうような台詞もよくあったけどそんな時、監督自身が著したノベライズを一日で読み切って(しかも旅行中に)みてスッキリした思い出もある。2時間27秒の中には到底映し出せなかったシーンの裏側を見れるディレクターズ・カット版の様でもあったりして。リトルゾンビーズたちの特集番組、実際に見たいなぁ...







2022.02.17 再見 @U-NEXT

今までの人生の中で最もキツかった"受験"が呆気なく終わり、2ヶ月半ぶりに映画に手を出す時、初めに観ようと決めていたのがこの映画だった。1年ぶりだった。
序盤から、「現代社会に対するブラックジョークが少し強いな」って初めて思った。きっとそれは、それだけ自分が"大人"というものに近づいたという事なんだろうな。「大人なりたくねぇ」と言う口でも結局このままでは大人として子供に貶される存在にならざるを得ない。だからこそ、"今っ!"てとてつもなく大事な感性だったのだ。
面接練習で「好きな映画は?」と聞かれる流れになった時にはこの映画を答え、「もちろん作っているのは大人の監督なのですが、子供の感性が存分に含まれていて興味深かったです」と理由を答えた。それはその通りだったし、咄嗟にそれを言えた自分も凄いと思った。
そうなのだ。僕は彼らより2年も歳を経てしまって、"普通の大人"になろうとしている。同調性、一般性、エトセトラに縋りながら日々を生きている。
この映画を観ていた頃はまだ余裕があって、この映画に触発されながら、思想(モノローグ)強めの誘拐映画を友達と撮っていた。コロナで完成もしなかったし、今では黒歴史だ。そんなこんなで13歳の頃の自分の倫理観を形成し尽くしたこの映画だが、今振り返ってみると、バズる事の"栄枯盛衰"的な功罪や、男性の弱みみたいなものまで描かれている気もした。
それは、今の自分が気になっている事だった。
そしていつ観ても震える多段階クライマックス。ワンカットだけカラーで挟まれたあれのときめきが半端ない。多分この映画を観ている瞬間はいつでも恋の真っ最中なんだと思う。それはもはや、概念に対しての。

そういえば、僕はまだ相対性理論を習っていない。
8637

8637