バーナディン・ウィリアムズは、刑務所の所長を務める中年の黒人女性。囚人の死刑が決まると、囚人にどのような手順で死刑が行われるのかを説明したり、施行する医者を選んだり、施行の日のスケジュールを取り仕切ったりしなくてはならない。長年の職務の中で、死ぬ際に苦しむ囚人や、無実を主張したまま死刑にされる囚人も見て来たバーナディンは、だんだんと精神をむしばまれ、酒を飲む量が増え、不眠症になり、夫にも心を開かなくなり、夫婦生活は冷え切っている。
最近、アメリカの「中年女性と黒人にはいい役が来ない」問題を解決しよう!という流れに沿って、中年の黒人女性が主人公というところに興味を持ちました。また、死刑囚の黒人男性は冤罪を主張していて、ブラック・ライブス・マター問題にある「黒人は簡単に死刑にされる」という状況下で、それを実際に施行しなければならないのが黒人女性というのは、とても厳しいシチュエーションだなと思いました。
冒頭に死刑にされるのはメキシコ人と思われる男性で、現在の死刑は薬品で行われるので、注射器を刺すのですが、血管が見つからなくてすごい痛い思いをして死んでいく。
この死刑執行のシーンを見て、私は馬鹿馬鹿しいと思いました。こないだ観た『カポーティ』では絞首刑、『黒い司法 0%からの奇跡』では電気椅子だけど、それらは残酷だからと、今は薬での安楽死になっている。死刑執行を見に来る人は、死刑囚が自分で選べる。最後に家族に会わせることもできる・・・・。などなど、ヒューマニティ、尊厳を維持しながら死刑をしようとしているのですが、どんなに上っ面を繕っても、人を殺すことは野蛮なことだなと思った。だから、それを実際にやらなくちゃならない人たちが精神を病んでいく。
死刑を宣告された方も、冤罪なのですからどんなに「最後に色んな権利がありますよ」と言われても納得行かず、絶望して自殺を図るけど、それは助けなくてはならない。まあもちろん、見殺しにはできないけど、死刑にするために生かして置くってのもなんだかな~と思った。
と、色々考えさせられるところはあるのですが、映画は「出来の悪い再現フィルム」みたい、とちょっと失笑してしまいました。バーナディンを演じるアルフレ・ウッダードは、とても評価が高いのですが、私には素人がアドリブで演技しているようにしか見えなかったです。言及した「中年女性と黒人にはいい役が来ない」ことが最近やたらと取りざたされてきているので、逆に中年の黒人女性が主人公の映画は貶してはいけない、って風潮があるのでは?って勘ぐってしまいます。
バーナディンが仕事のストレスで夫と疎遠になり、プライベートな問題を抱えているという側面も見せているのですが、旦那さん役の男優さんとも全くケミストリーがない。他の主要人物、死刑囚の弁護士とか、刑務所の牧師さんとかも、全く際立った人もいないし、役者同士のケミストリーもない。
そんで、バーナディンの心情を表現するために淡々とした、静かでゆっくりした感じに撮っているのでしょうが、余りにもバックグランドの音がなさ過ぎて、だからチープな再現フィルムみたいなんだなあって思った。音楽もないし、背景の音もない。
考えてみたら、刑務所のシーンも他の囚人ほとんど出てこない。一人だけ出てきたかな?他の映画で見ると、隣同士の囚人が壁越しに大声で話していたり、すごいうるさいところなのに。死刑囚が弁護士や家族と面会するシーンも、だだっ広い面会室に他の面会している人が一人もいない。
バーナディンの所長室も彼女の人となりを匂わすものが置いてない。旦那さんの写真とかもなかったと思うし、誰かの部屋を借りてきたような感じ。これも「三文再現フィルム」みたいに見える原因だなと思った。
あと、冤罪で死刑にされる囚人に対して、「死刑に反対するプロテストをしている人たちが外にたくさんいる。君の弁護士もなんとか死刑を止めようとしている。だから君は愛されている。神様にも愛されている」みたいなことを言うのですが、こういう「困難な状況でも愛がある」みたいな慰めはもううんざりで、今や「システミック・レイシズムが問題なのだ」ってわかっているのに、こんな古臭いアプローチなのか~!って思った。
ちなみに刑務所の前でプロテストしている人たちの描写も、どっかから連れて来たエキストラみたいなしょぼい感じだった。
テーマがタイムリーだっただけに、もったいないなあと思いました。もっといい役者さん、いい脚本、いい監督でこういうお話を掘り下げて欲しいなと思った。