sanbon

浅田家!のsanbonのレビュー・感想・評価

浅田家!(2020年製作の映画)
4.2
実話をベースにした「成長譚」が素晴らしい。

「一生にあと一枚しか撮れないとしたら?」

この問いかけがあったからこそ「浅田政志」にとっての写真は「楽しく」「幸せ」な瞬間を切り取り、そしてそれを残す為のものという、確固たる"信念"に基づいたものになったのかもしれない。

写真は、撮るだけなら一人でも問題なく出来るものだが、そこに感情を芽吹かせる為には"他者の存在"ほどなくてはならないものはない。

そして、本来写真とはシャッターを切るだけでどんな場面でも克明に切り取る事の出来る便利な道具として存在している。

それがたとえ、人の「不幸」を写し出そうとしていても、撮り手さえそれを望んでしまえば、指先にほんの少しの力を込めるだけでいとも容易く願いは叶ってしまう。

そういう面では、撮り手がその指先に込めた"思惑"すらをも同時に浮き彫りにしてしまう、いわば"合わせ鏡"のような存在でもあるのだと思う。

だからこそ、政志は政志に写真家の道を示してくれた父親の姿に倣うようにして「家族」を被写体に写真を撮っていく。

それが、シャッター越しに見る父の姿がいつも楽しく幸せそうに見えたからなのだとしたら、その選択は"必然"だったのかもしれない。

今作は、実在の写真家である浅田政志氏の半生を通して、成功と挫折、そして克服を実に巧みな演出によってまとめあげた"笑い泣き"という言葉が非常に似つかわしい感動作となっている。

まず、浅田政志がプロの写真家になるまでを描いた前半部分にあたるパートは、家族を題材に時に停滞しつつも、常に楽しく優しい空気感が物語を彩り、政志の信じたものの確かさと展望の明るさを示唆する導入にもなっていて、楽しみながらも既に涙腺が緩みはじめるくらい素晴らしい展開をみせる。

そして、なによりもそんな政志が幸運だったのは、これ以上ないほどに"人望"に恵まれていた事だろう。

いくら息子が夢追い人だからといって、あそこまで協力的で、あそこまで絶対に見放そうとしない人達が身内にいるなんて、普通に考えても唯事ではない。

自分の家族は、血縁者が誰一人として一緒に暮らしていない、いわゆる一家離散状態にあり、それを不幸だなどとは間違っても思ってはいないのだが、浅田家のような関係には決してなれない事を考えると、眼前に広がる幸せな光景がより温かみを増して感じられる為か、そんな家族とのやりとりを見ているだけでも、羨ましくありつつも幸せの涙でいっぱいになってしまう。

そして、そんな家族に支えられ育まれたその信念が伝わったからなのか、大手出版社には見向きもされなかった「浅田家」の写真集は、写真界の「芥川賞」とも呼ばれる「木村伊兵衛写真賞」を受賞し一気にその知名度を上げていく。

それをきっかけに、各地から家族写真の撮影依頼が徐々に舞い込むようになり、政志の活躍はここから更に加速していく事になるのだが、この活動が政志に思いもよらない葛藤を与えていくことになる。

それは、政志が他人(ひと)と他人(ひと)とが繋がりあっていく奇跡を体験していくなかで、家族の在り方は人それぞれで、例え幸せな瞬間を切り取る楽しげな時間であっても、その裏には時として「生と死」が介在しているという事実を否応なく理解してしまうからであった。

この、"身内以外"の家族を撮り始める中盤のパートから、政志は徐々に明確な壁にぶち当たる事になる。

つまり、これまでは一緒に楽しんで良い写真を撮るという軽いノリで写真と向きあって来た政志が、ここにきて明確にそのスタンスを改めることを求められる事となり、それはすなわち写真家を志すきっかけとなった信念を捻じ曲げる事に他ならなかったからである。

そんな中盤パートでは、3組の家族が紹介されるのだが、最高の一枚を撮る為の打ち合わせを経て撮影される写真のそのどれもが、全て本当に幸せそうで、だけどその裏にはその一枚の写真を見ただけでは量り知ることのできないそれぞれの事情もあって、そんな悲喜こもごもな感情がごちゃ混ぜになって、気付けばここでも涙が溢れていた。

そして、その「死」の予感は後半のパートにあたる「東日本大地震」に直面する事で決定的なものとなってしまう。

家族写真とは本来楽しげなもので、家族としての成長とその歴史を残す為にあるのだと思っていたものが、その家族が失われてしまった瞬間から突然ガラッと"意味"を変えてしまう場面を幾度も目の当たりにし、政志はついに「撮れやんよ…」と撮影を拒んでしまう。

それは、父親の安否が分からなくなってしまった「内海家」の少女から、いくら探してもお父さんの写真だけ見つからないから、家族写真を撮り直して欲しいとお願いされた時に思わず溢れた本音だった。

この時、政志の貫いた信念は厳しい現実を前に完全に打ち砕かれる事となり、時を同じくして浅田家にも暗雲が立ち込める出来事が起こるのだが、この作品の素晴らしいところは、この難しい状況を見事に克服してみせるところにある。

そして、この局面を救ってくれたのは政志が写真に興味を持ち、写真家としての進むべき道を示してくれた、他でもない父親の姿にこそ隠れていた。

更には、その解決策が撮影時にセルフタイマーを多用する政志には気付きにくかったというオチも、伏線的にはとても優れていたと思う。

このように「克服」の描写を、"前進"するのではなく、あくまで"原初"に立ち返る事でしっかりと成立させているのだから、これのどこまでが真実なのかは分からないが本当によく出来たヒストリーである。

もう、この段階までくれば涙腺のダムは完全に決壊状態で、いちいち涙を拭っているのも面倒になる程、久々に大号泣してしまった。

それは、僕自身には写真と呼べるものが一枚も残っていないからだと思う。

正直、僕は写真が大の苦手で、撮るのも撮られるのも極力避けてこれまでの人生を生きてきた。

その上で、僕の家族も先述したように若干複雑なところがあり、写真を撮るという文化がそもそも僕の生活環境にははじめから無かったのだから、当然家族写真も手元には一切残っていない。

だからこそなのだろうが、底抜けに明るく楽しげに写真を撮る家族の姿は、僕にとってはあまりに眩しすぎて、それだけで"羨望"の涙が込み上げてきてしまったのだと思う。

そんな僕には、今作はあまりにもキラータイトルすぎてしまい、最初から最後まで涙が乾く暇もない程だった。

ラストは、この作品なりに明るく締めくくろうとしてくれるのだが、僕には逆にその垢抜けた雰囲気が更なる涙の呼び水になってしまい、今作は本当に最後までいい意味でダメだった。

エンドロールの最後に本物の浅田家の写真が差し込まれるところまで、余すところなく大号泣必至のまごう事なき傑作だったと思う。
sanbon

sanbon