開明獣

パリに見出されたピアニストの開明獣のレビュー・感想・評価

4.0
ベーゼンドルファー。音楽の都、ウィーンで産まれた高級ピアノ。その一台が、とある高級介護施設の大広間の片隅にひっそりと佇んでいる。施設を訪れて、慰問演奏をする音楽家の卵にとっては、憧れの楽器ではあるが、重い打鍵と渋みのある、いぶし銀の音色に手こずることも多いようだ。

郊外の高級住宅街近くに居を構えるその施設には、入居費用も相まって、それ相応の所得者が集っている。その中の一人で、学生時代は真剣に音大へ進むことも考えたという、元実業家が気前よく新品をポンと寄付したのが、この銘器だ。

その元実業家は、時折、鍵盤の前に座って小品を復習いながら、「こいつの重厚感と風格は、やっぱり、ラヴェルやドビュッシーよりも、バッハやベートーベンが合ってるなあ」とにこやかに微笑み、「しかし、これが本来の鳴りと響きを奏でるには、あと50年ほどの歳月がいるのかな?残念だけど、私がその音色を聴くことはないだろうな」と少し寂しげに呟く。

幼い頃からその楽器の習熟に寝食を忘れ、道を極めんと精進してきたものたち。煌びやかな舞台で満場の観衆を魅了することを夢見て精進するが、そこに辿り着けるのは、ほんの一握りの極く限られた人間だけだ。

三日もかかってようやっとものに出来た一節を、初見でいとも簡単に弾いてしまう、そんな化け物がウヨウヨしている世界で、殆どのものは夢半ばにして挫折してしまう。天賦の才に加えて、倦むことなく弾き続けられる能力の前には、凡人のどんな努力も虚しく色褪せていく。

あるものは、駅に置いてあるヤマハに、あるものはとある都市のホテルラウンジのスタンウェイに、あるものはイタリアの教室にあるファツィオリに、あるものは、自宅のカワイに、あるものは、介護施設のベーゼンドルファーに、かつて虹色のスポットライト夢見た頃を懐かしんで、鍵盤に向かう。

この作品の主人公、マチューをサポートする音楽院のディレクター、ピエールは自宅での晩酌に、ボルドーはポムロルの銘酒、シャトー・ラ・コンセイヤントを開ける。相当な生活水準でなければ、デイリーワインとして口に出来るような代物ではない。

クラッシックの世界は、お金持ちの道楽だと、マチューが、恋人でチェロをパリ音楽院で習うアンナに吐き捨てるが、それはあながち間違いではない。お金がなければ、クラッシックの世界の門戸は簡単に開きはしない。そうやって、自らの首を絞めるように、マーケットを狭めてきたのが、クラッシック界の現実だ。

だがそれでも、音楽のもつ真の力は普遍的で偉大だ。この作品を観て、耳に届く名曲の数々には、抗いがたい魅力があることを認めざるを得ないだろう。

全ての音楽を愛する人々へ、この作品は捧げられている。
開明獣

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