イホウジン

はちどりのイホウジンのレビュー・感想・評価

はちどり(2018年製作の映画)
4.4
「理不尽」と「孤独」を知ることは、人間が成長する第一歩

今作は起承転結の浅い淡々とした出来事で綴られるごくミニマルな物語だ。登場人物たちもあまり多くを語らず、映像による非言語的な感情表現も多用されている。映画の表層だけを見てしまうと、ハリウッド的なダイナミズムもない凡庸な映画と受け取ってしまうだろう。しかしながら、その平凡さ,余白の多さ,人生の複雑さをそのまま表現する感じが今作をより観客一人一人の人生に近付け、同時代的でありながら普遍的なストーリーがより際立つものとなっている。
今作で面白いのは、「入院」を挟んだ前半と後半で、発生する出来事がよく類似しているきも関わらず、主人公の受け止め方が大きく変わるという所だ。
“類似”という言葉から紡ぎ出せる今作の固有性は、主人公が精神的に成長する反面、周囲は一切変わらぬ日常を送っているということだ。確かに私たちの日常だって類似した出来事の反復である。そんな環境下で自分が“変わる”ことの方が余程困難だ。映画でよくある人間の精神的成長の描写は、結果的に主人公の周囲の心さえも成長することが多いが、今作ではその予定調和を意図的に崩している。主人公は精神的成長を達成ないし開始したのに周囲は全く変化しないので、前半以上に主人公の感情や人間関係は複雑になり、前半には無かった新しい感情も芽生え始める。故に、普通ならハッピーエンドに向かうはずの終盤で、主人公が「理不尽」と「孤独」を自覚し始めるという斬新なエンディングを迎えるのである。
ここまでだと今作があたかも“映画的な”心の成長を皮肉るような映画に見えてしまうかもしれないが、そうではなく、今作はこの成長を始めるための最初の段階を主題として扱っていると考えた方がいいだろう。それは、自我を持った“わたし”が社会と接することで生じる「理不尽」と、人間の必然的な「孤独」の寂しさを受け入れるということだ。
主人公は病院編のラストにおける先生の「殴られないこと」という言葉をきっかけに、自らの置かれた理不尽を自覚し始める。逆に、それまでの主人公は理不尽を察知できず上の存在に服従せざるを得なかった状況だったとも言える。前半におけるその典型はあのオープニングだ。受けてすらいない暴力に苦しんでしまう主人公の姿と、その後の俯瞰するショットは主人公の置かれていた理不尽を観客に知らしめるかのようだ。しかし、主人公とが親近感を感じることになる「先生」との出会いによって、彼女は次第に自分を客観視しその理不尽を自覚し始めるようになる。そして先生のその言葉によって、「自分のおかれた理不尽に対しては声を上げてもいい」という意思を得る。そういう意味で後半は一種のカタルシスだ。偽善や社会の誤ったシステムに対して声を上げ始める主人公は、思わず応援したくなる。ただ、ここまでの話ならよくある青春映画と大差ない。今作はその主体性の獲得の代償とも言える「孤独」に対しても言及し始めるのだ。
今作で描かれる「孤独」は2種類ある。1つは“自らの意思で選択した”孤独だ。これは後半における恋愛描写や家族との軋轢の中で主に主人公を中心として描かれるが、これは寂しさを伴う反面、「わたし」を強化していく役割も持っている。周囲の人間も何故かいい人になる凡庸な青春映画と比べると、その生々しさと強さが余計に引き立つ。そしてもう1つは“外部の力でこれまでの関係性が崩れる”孤独だ。今作ではこれが「死」をもって語られる。劇中に登場する2つの「死」は結果的に家族を新しい絆で結びつけることになるし、主人公にとってもその喪失を受け入れることで、真の意味での「過去との決別」を達成することになる。“成長”が一筋縄ではいかない人間臭さが今作をより愛おしいものにしている。
また、今作の“余白”はハイコンテクストに韓国現代史をトレースするものにもなっている。両親はおそらく人生の大半を軍事政権下で生きた存在だ。民主化運動に関しては(ちょうど「タクシー運転手」のような)“目撃者”的立場だったとも言えよう。政治に翻弄される苦しみが子供に安定を渇望させるのかもしれない。そして「先生」は87年の民主化運動に“参加した”人物と見て取れる。彼女の、自分の人生は自分で決めるという揺るぎない信念は、当時の韓国の凄まじいエネルギーの一端だったのかもしれない。兄と妹はおそらく「サニー」の世代だろう(未鑑賞なので言及は避ける)。そして主人公は「82年生まれ、キムジヨン」の世代だ。今作では主人公のアフターストーリーが語られることはないが、主人公が多感な時期に受けた社会の理不尽は間違いなく将来に影響するものであろう。原作は未読だが、今秋公開の映画で彼女の“その後”を補完したい。
主人公の演技も素晴らしい。際立った感情が出てこないながらも繊細で微弱な変化が見事に表現されている。特に、序盤に述べた「前半と後半」の変化を主人公の表情の変化をもって体現しているのが素晴らしい。起伏の弱い感情は、合間合間の明確な感情表現をより引き立たせるものとなっている。

あえて言うなら終盤の展開がやや無理やりだったようにも思える。

今更言うまでもないのかもしれないが、本当に近年の韓国映画は、動的なものも静的なものも傑作ぞろいで羨ましいところだ。日本映画がダメだとは言わないが、仮にも黒澤小津溝口を輩出した国なのだから、もっと政府も努力してほしい。
イホウジン

イホウジン