Kuuta

燃ゆる女の肖像のKuutaのレビュー・感想・評価

燃ゆる女の肖像(2019年製作の映画)
4.3
水の行方

水を出迎える炎によって、濡れたキャンバスは乾き、絵が描けるようになる。水の画家・マリアンヌ(ノエミ・メルラン)と炎の貴族の娘・エロイーズ(アデル・エネル)の恋愛関係は、キャンバスが燃え出さない絶妙な距離でのみ成立する。

(映画の観客はスクリーンというキャンバスの上で、2人の恋愛を動く絵として観察する)

表面の姿しか知らなければ、表面の絵しか描けない。見る/見られる関係を、同じ位置からのショットが強調する。2人の関係が深まるにつれて、画家はモデルの画角に、モデルは画家の画角に入り込むようになる。

違った角度の表情を知るたびに、マリアンヌは絵の具を重ね、エロイーズの人物描写を深めていく。

素晴らしいのが、表面的な絵画に刻まれない真実は「音楽」と「画面の奥行きを生かした構図」に現れる点だ。被写界深度の変化、顔に正対したショット、背中や後頭部を追い続ける長回し、後述する岩壁のシーン、焚き火越しの視線のカットバック、そして幽霊。

音楽と奥行きを手にした2人は、絵画的で美しい=人工的な抑圧に満ちた画角の中でも、生き生きと視線を交わし、コミュニケーションを取り始める。何度も目線を上げ下げするのが、真に迫る絵を描く秘訣のように感じた。

心身ともに一つとなっていく2人。だが、母親が帰ってくると、エロイーズは言われるがまま2人で占有していた画角から出ていき、名残惜しそうに振り返る。この後、2人が同じ画角に収まるのは、あるシーンの一瞬に限定されている。

微妙なバランスの上で成り立っていた恋愛の美しさは、絵として枠に収められ、孤島の外にある社会へ、男が望む商品として出荷されていく。

距離感を一歩でも間違えれば、エロイーズは燃えて死んでしまう。2人の関係は肖像画を描き終えるまでの契約を前提としており、エロイーズが結婚という死に向かう事は、最初から確定している。

炎と水は相容れず、炎は消える運命にあるからだ。彼女の目には常に死が宿っているように感じた。死によって永遠になるという「忘却」のモチーフは、中盤のオルフェウスの神話に登場し、現実に再現され、結局それも絵になる。絵を燃やす=死のシーンを終盤に置くのではなく、最初に入れているのも効果的。

(逆に言うと、枠に収められる事が見えきっている話なので、展開に意外性はない。個人的には、焚き火のシーンのようなアップダウンがもうちょっと欲しかった)

大胆な編集も印象的だった。オープニングで「描かれる側」になったマリアンヌの表情、画面は固定された「絵」になっている。だが過去の「描く側」に変わると、マリアンヌの顔の位置はそのままに、シーンは海上に飛び、カメラが揺れまくる。ここでもう良い映画だなと直感する。

社会的な障壁としての、服の着脱が丁寧に描かれる。マリアンヌは境界を崩すようにタバコを吸う→エロイーズは葉っぱを吸うことを提案する。

海岸で「真実」を告げる序盤のシーンで、ショックを受けるエロイーズの後ろには硬い岩壁が写っている。だが、中盤のある見せ場では、その岩壁を前にしたカメラが、絵の画角を揺さぶるように横移動した結果、隠れていた「奥行き」が明らかになる。

面白いのが、この2人の間を「左右に行ったり来たり」する給仕のソフィ(ルアナ・バイラミ)の存在だ。彼女は最も動的でありながら、外形的には形式に縛られた「人間」として、植物の刺繍を縫い、身をもって死を経験する。

マリアンヌは屋敷に水を持ち込み、分け与え、エロイーズに注ぎ込む存在だった。愛を絵に封印されたエロイーズは、再会しても表情を崩さないが…。

エロイーズがモデルに戻り、マリアンヌが固定画角=画家の視点を貫くラストシーン。エロイーズの本心は、音楽とともに溢れ出し、彼女の最高の肖像画が完成する。(「プロ」と自負するマリアンヌは、この場面のために別れを演出した?)

屋内での蝋燭の美しさに加え、人が数字に変わる所でバリー・リンドンを思い出した。あんなふざけた映画じゃないけど。86点。
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