湯浅監督は強烈な個性を持っていて、常に通底する特徴というか一貫性というか作家性があるんだけれど、それでも毎回「違うもの」を見せてくれるので、ほんとに凄いし楽しい。
「アニメを見る原初的な喜び」をこんだけ満足させてくれるクリエイターって今、他にいるのかしら。
さて、本作のテーマは大きく二つあって、ひとつは「表現者とハングリー精神あるいは欠損もしくは劣等感」。
これはあれですね。「ハングリーで尖ったロックバンドが売れて金を持つに連れてつまんない曲しか書けなくなる問題」。
本作では「どろろ」の百鬼丸よろしく文字通りの肉体的欠損を抱えて産まれてきた犬王が、ひとつひとつ欠損を取り戻していく。最終的にグラムロックのアーティストみたいな「美顔」まで手に入れて、体制とべったりになってゆく。
産業ロックですなあ。
バンドで言うなら、だいたい3枚目のアルバムが分岐点。
クラッシュの「ロンドン・コーリング」、ブルーハーツの「トレイン・トレイン」、サザンの「タイニイ・バブルス」。
この辺が、古参のファンの分岐点になる。尖ったところが気に入って飛びついたファンは、鈍角になってしまったバンドにがっかりするものなんですね。ミュージシャン側にしてみりゃ、どっちかっていうと「自分のルーツ探し」をやっただけなんだけれど、古参ファンは「あいつら終わった」ってなっちゃう。
いや、私は今出した3例とも大好きですけどね。
でもさ。本作の場合、義満のおぼえ目出度くなったあの後の犬王に何ができるかね?
もうひとつのテーマは、「表現と規制」の問題。
これは一定の国や時代や条件において、表現者が必ず直面する深刻なテーマ。
戦時下の日本でも、GHQ統治下でもあった。
なんだっけ? 今日、「バズ・ライトイヤー」がアラブ首長国連邦で上映禁止になったってニュースがあったけれど、それもそう。女性同士のキスシーンがあるんだそうな。未見の映画について、ニュースでちょっとしたネタバレ喰らうってのも腹立つけどね。
規制に従わざるを得ない表現者と、それでも表現を変えない表現者。
これはまあまあ大きな投げかけですよ。
現代でいうなら、ポリティカリー・コレクトネスは確かに重要だと思うけど、やりすぎって感じちゃうこともある。あと、日本なら忖度・同調圧力だって同じね。
ちょっとだけ、若き日の木下惠介を主役に据えた「はじまりのみち」も思い出しました。
まあ、アメリカだってヘイズコードの時代にこそ、映像表現が進化したってこともあるし、旧ソ連での主流文学がSFだったってのも、メタファーを理解できないバカな「お上」をすり抜ける手段だったってことだから、規制の功罪はあるんだけど。
本作のテーマは二つって書いといてあれなんだけれど、さらに三つ目のテーマとしては、どんな素晴らしい表現でも記録・保存されないと失われてしまうってことですね。
定本化することで、現代まで残った「平家物語」と、記録がないためにほとんど忘れ去られた「犬王」。
我々の大好物の「映画」もおんなじ。
アメリカではスコセッシ師匠が奔走してくれてるから、まだ何とかなってるところもあるけれど、日本は昔っからヤバいよね。
山中貞夫なんて、3作しか観られないんだから(←まあ、それを言うなら黎明期のテレビ番組だってそうだよね)。
ところで、アヴちゃんって人知らなかったからWikipediaで調べたんだけど、「平家の末裔」って書いてあって、ちょっと笑っちゃった。まあ、明治になって家系図ビジネスが跋扈して、だいたいの平民が藤原氏の末裔ってなっちゃうから、家系図は信用できないんだけれど、「あえての平家」だもんね!