八陰あおたこ

ファナティック ハリウッドの狂愛者の八陰あおたこのネタバレレビュー・内容・結末

3.3

このレビューはネタバレを含みます

後半…というか、シメというか、オチ以外はかなり好きだった。
途中までは星4.5くらいあっていいくらいイイ。
 
ジョン・トラボルタが演じている、主人公のムースは…かなり言い方が難しいけど、発達障害ではあるものの、仕事も一部できるし、意思疎通も図れる人物。
『ジョーカー』のアーサーと似た境遇だとも言える。
たぶんアーサーよりも社会生活力が上。
 
アーサーと違うのは、アーサーは自分で悪いことをやってる自覚がはっきりあるんだけど、ムースはその自覚がない…というよりは、自覚したことをなかったことにしている感じ。
 

ムースは基本的には善人だ。
いわゆる、彼の中での”悪いこと”に対しては拒否反応を示すし、諌めたりもする。
それは友人のレアとの仲や、店の主人、警備員のセリフなどをみてもよくわかる。
本作の事件があるまで、ムースの周りからの評価は”ちょっとおかしいところがあるけどいい人”だったはず。
 
が、こと自分の欲望がからむとそういった倫理的な考えはふっとぶ…というより、自分が”こうしたい”と思ったことを行うことに対する、罪悪感の類を一切持ち合わせていないように見える。
よくある、趣味のために迷惑行為を行う人と似ている。
 
ちゃんとルールを守って趣味を楽しんでいる人もいる。
でも、ニュースなどで取り上げられている迷惑行為を行う人たちを観ていると、”自分だけはなにをやっても許されると心から思っている”ようにみえる。
 
”なぜ?”、”なんで?”、”俺はこういうことがしたいのに、なんで邪魔をするの?”、”俺の邪魔をする、お前が悪い!”
ムースもこれと同じ考えを持っている。

善人なのは間違いない。でも、自分のやりたいことはやりたい。
目的達成のための迷惑行為・犯罪行為を我慢することができない。
 
素人考えでいうと、おそらく”反社会性パーソナリティ障害”に当てはまる。
 
なぜ”反社会性パーソナリティ障害”を持つムースに、善の心があるのか?
それはおそらく映画の影響ではないかと思う。
 
母親が、自分の目の前で浮気ないし連れ込んだ行きずりの男とイチャついている回想シーンからわかるように、親からの愛を受けることなく生きてきたのだろう。
 
その一方で、映画をたくさん観る機会があったことで特定の倫理観というか、道徳も育っていた。
だから、盗みはいけないと同業者のワル共に注意することもできる。
 
でも、自分はその道徳には囚われない。
自分の目的達成のためなら犯罪行為も行うし、諌められると”なぜ意地悪するんだ!?”と激昂する。
 
”ストーカー”と呼ばれることを嫌うのも、”ストーカー”は相手に迷惑をかける人間だということをムース自身がしっかり認識できている証拠。
 
ですが、自分がやってるストーカー行為は全て、”映画・俳優へのリスペクトからくるファン行為”となります。
この自己正当化の考えを、わざとやってるんじゃなくデフォルトで、無意識に行っているのがムース。
 
 
とはいえ…一部、無意識ではなく無理やりなかったことにしてたりもします。
 
家政婦のアマンダを殺害してしまった際、おそらくムースとしても”これはヤバいことをしてしまった”という認識はあったでしょう。
 
しかし彼は、アマンダはただ倒れているだけで、死んだということを考えないようにしているという感じがした。
自分の中で、「彼女は寝ているだけだ」「鼻血を出している。鼻血は気持ち悪いよね」という流れで、だんだんと”アマンダの状態”から”鼻血”へ話題をシフトしていく。
 
そして、風鈴の音を聞く。
これはおそらく、”ハンターの家に自分が招かれている”とムースが思い込むための材料。
 
なんでもいい。
とにかくムースの中で、不法侵入する理由付けができればなんでもいい。
 
家の中に入ると、アマンダのことを忘れようとするかのようにはしゃぐ。
いや、風鈴の音を聞いた時点で、アマンダのことはすでになかったことになっているようにも思う。
 
そういう、自分の都合のいいように記憶と認識を改ざんすることもできるのが、本作の主人公であるムースという男なのだと思う。
 
 
んで、そういうキャラクターであるムースを演じたトラボルタなんですが、まあ演技がイイ。
服装もすげえイイんだけど…。
私はトラボルタの肩~手先までの演技もスゴイと思いました。
 
なんていうか…こう、私もオタクなのでわかるのですが、人前に出ると体が緊張するというか、面と向かって喋るってときにドキドキしてしょうがないんですよ。
 
あの感じ。
挙動不審な感じがものすごくよく表現できてたんじゃないかと思いました。
手を振って歩かないんです。ビタッと肩から固まっている。
 
 
ストーカー関連の表現は…どうなんですかね?
ゲイっぽい行動をよくするんですが、ムースがゲイなのか…それとも、行き過ぎたファン行為ってやつは男女関係なくああいうことをするのか。
(おでこにキスしたり、相手が使ってる歯ブラシで自分も歯磨きするとか)

 
あと、この映画で面白いというか興味深いと思ったのが、人物ごとの目線で考えてみることです。
 
私達は神の視点で映画を観ているので、全員の状況や立場がわかっています。
ただ、登場人物からしたら自分の目線でしか状況を把握できない。
 
ムースは俳優のハンター・ダンバーに手紙を渡したかった。
この時、”あなたを困らせてしまった”という反省も添えています。
 
それなのに、家政婦も、親友のレアも、ハンター自身もみんなムースを拒否して怒ります。
 
ムースからすると、みんなが怒っている理由が理解できない。
ムース目線で考えると「手紙くらい受け取れよ」とか、「サインくらい書いてやれよ」と思っちゃいます。
 
ですが、相手目線…ハンター目線で考えると、拒否されて当然だなと思う。
そういった、自分の都合・相手の都合というものをあらためて考えさせられました。
 
”相手の立場に立って考えてみる”、”自分がされて嫌なことは相手にもしない”といった考えは、社会生活を送る上でやはり大切だなと。
 
 
そんな感じで、この映画の途中まではすごくのめり込んで観ていました。
ですが…最後の最後、オチがちょっと…。
 
アレでハンターが逮捕されんのってどうなの?と思います。

いや、あのあとちゃんと取り調べて無罪になって、あらためてムースが家政婦のアマンダ殺しで逮捕されるのかな~とか。
弁護士もそれなりのをつけるでしょうし、万が一、ムースヘの暴力行為について言及されたとしても、たしか州によっては不法侵入されたら撃ち殺してもいい場所もあったと思うんですが…そんなに責められないんじゃないかな…どうかな…?
 
 
なんかこう、ハンター側も捕まってなんか、「しょうがない」って感じなのがイマイチ納得できないというか。
おそらく心神喪失って感じなのかなと。
 
ハンターがムースをあれだけ痛めつけたのに家に返したのは、「やりすぎた」と思って自分の行いを悔いているからでしょう。
ハンターはたしかに気性が荒く、家政婦に手を出したりと素行に問題はありますが、息子への愛は本物だし、そこまで悪い人間でもないというか…普通の有名人って感じ。
 
そんな彼が、どうみてもやべー奴に縛り上げられて、かなりの恐怖を味わった。
しかし、彼は俳優です。
 
映画の中の人物、おそらく彼が演じたアクション映画の主人公になりきって恐怖に打ち勝ち、ムースを撃退した。
のはいいんですが、ムースが泣き叫ぶのを聞いて我に返ってしまい、さすがにやりすぎた…と罪悪感に苛まれたって感じだと思います。
それはなんとなくわかるんですけど…にしたってねぇ。
 
あと、途中で挟まれるイラストが…ちょっと邪魔だったかなと。
あれはなくてもよかったんじゃない?わかるし。
ラストの海賊っぽい格好したムースだけでよかったような。
 
『ミッドサマー』なんかもイラストをはさんでましたが、あれは一応考察のネタになるし、まああってもいいかなと思いましたが、本作のあのイラストは、ただ単に直近の状況を描いているだけにしかなってないんじゃ…。
 
あのイラストについて、「実はこういう深い意味がある」みたいなことに気づいた方がいたら教えていただきたいです。
 
ベッドにハンターを縛り付けてたのは『ミザリー』のオマージュ?
他にもホラー映画ネタはありそうだけど気づかなかった…(ジェイソンくらい)。
 
 
自分だったら、「サイン書いて!」ってしつこく言われて家にまで来られたら、ハンターほどはっきり怒ったりできるかわかりませんが、きっと嫌な気分になるでしょうね。
 
でもだからといって、特定のファンだけを特別扱いするわけにはいかないので、ハンターの対応は別に当たり前だなと感じました。
ムースが悪い。
 
でも、サイン一つで本作の悲劇は回避できてたんだなぁ…とも思います。
ムースは”我慢の人”。
その我慢の限界が、ハンターのサイン会で爆発してしまった。

いやはや…トラボルタの演技、お見事!!