バス行っちゃった

マトリックス レザレクションズのバス行っちゃったのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

マトリックスのその先を見せてくれるらしいので行ってみたけど残念ながらといった感じ。

同じような動きを二時間近く見せられるアクションも結構しんどめ。自虐なのかバレットタイムバレットタイム半笑いで連呼してたけど、なら違う形なり上回る形なりで超えてくれよっていう。生みの親側が自分たちの仕事を突き放してしまったら、あの頃心奪われた人たちはもう術無いだろうというのもあるし。

トリニティの覚醒についても、仮想世界では描けていた現在のキャリー=アン・モスの味わいを活かした描写が覚醒後はすっかりなくなって、あのころのネオができたことができるようになりました、という程度なので、男にできたことは女でもできるとかいった風の個性や違いを軽視する古いくさい男女平等像だったり、ミスター・アンダーソンではなくネオであった意味はどうなるんだよだったり、若いときのようにできることが老いを肯定する表現であるという考えこそが老いに対する冒涜ではないのかとかだったりなんだり気になってしまって、なんだかなあ、みたいな。

作り手としてはマトリックスという作品に思い残しがあったとか、誤解をどうにかしたいだとか、このシリーズに乗せて表現しなければならないテーマがあるとかいうようなことなのかもだが、そもそれらは青か赤かを選ばなければならない世界との親和性があまり良くないように個人的には感じていて、さらには前3作が作られたときとは比べ物にならないほどジェンダーの問題とリベラルリベラルしたものとが絡み合ってしまっている現代に対応するための、つまりはあなたはあなた私は私ということや、その延長線上にある自己責任論の葛藤、互いの個性が共に尊重されるが故の個性と権利の衝突と優劣の押し付けというものに光をあてることが難しい、つまりは現代的なアップデートを施すことができない世界観なのではないかという心配があって、案の定、たとえば青か赤かなんて選べない、選ばないという向きや、選ばせるということの文化的、政治的な問題に対するマトリックスだからこその回答というのは見つけられず、私を見て私を見てというエゴでもってできているような、それ自体が悪いわけではもちろんないけど一作目でそういうのはやったのだからという、結局は繰り返しなのかといった印象が強くなっていってしまい、この監督でなければできなかった仕事、現実社会に対しての表現の可能性に向き合えていない作品のように思えてしまって、そうなるともう見ている間中ネガティブな感想しかわいてこなくなってしまったので、まあ相性が悪かったのかなと。