keith中村

街の上でのkeith中村のレビュー・感想・評価

街の上で(2019年製作の映画)
5.0
 Netflix偉い! 劇場で見逃してたので、助かります!
 いや~、面白かった。こんなに面白くていいのか、というくらいで笑い通しだった。
 
 今泉力哉、打率が滅茶苦茶高い!
 これ、公開は今年だったけど、製作は「あの頃。」「his」「mellow」より前なんですね。「愛がなんだ」の次で、「アイネクライネナハトムジーク」と同じくらい?
 
 評判が高いのは知ってたけど、それがまさかこういう作風の映画とは思ってもなかった。
 オフビートなコントがただただ積み重なってゆくだけ。
 なのに、物語は着実に進んでいくし、登場人物たちの人生が交錯していく。
 
 観てて何より連想したのは、ロイ・アンダーソンの作品たち。
 ロイ・アンダーソンはどんどん「そぎ落とし」をおこなっているので、新作ごとに「純化」というのか、「わび・さび」の境地にに行ってるけれど、本作は「ちょっと手数の多いロイ・アンダーソン」みたいな感じ。
 本作を「ワンシーン・ワンカット・フィックス」で作れば、完全にロイ・アンダーソンになる。
 いや、もちろんそうじゃないからこそ、今泉作品なんですが、なんというのかな、「何でもできるな、今泉監督」って感じで嘆息しました。
 
 あと、本作は「ちょっと緩めの輪舞形式映画」でもありますね。
 シュニッツラーの「輪舞」です。オフュルスとロジェ・バディムが映画化したやつね。
 「輪舞」は(AB)-(BC)-(CD)...(IJ)...と進んでゆき、最後に(JA)に戻って円環構造=「輪舞」が完成するという、艶笑譚です。それを、直列化じゃなく、並列化して描いたのが、本作。
 だから、メインの構造は(若葉竜也+穂志もえか)→(穂志もえか+成田凌)→(若葉竜也+穂志もえか)と、めっちゃ半径の小さい円環構造、というかもはや一回反復横跳びしただけくらいな感じなんだけれど、その周辺にも円舞構造が広がってゆく。
 だから、開かれたまま、円環に閉じない関係性も描かれる。
 「お巡りさん、どうなったの?」とか、「イハちゃんの2番目の彼氏って、『元関取』と同一人物? それとも違うの?」(←ま、イハちゃんは「幼馴染」ってたから、年齢的に別人なんだろうけれど)みたいな余白が生じて、そこがまたリアルで面白い。
 
 それから、本作は私の大好きな「映画を作る映画」でもあるんですよね。
 ま、私と同じく自主映画ではあるんだけれど。
 ただ、本作ではそれが、「芸大の卒業制作映画」なので、私たちみたいに部活動で撮ってるよりは切実だった。
 私たちは、飲み会であんなシリアスな話とか、ダメ出しなんかはしませんでしたよ。
 
 そうね。
 本作は映画に対する言及もとても多かった。
 そのダメ出しシーンでは、「熊切和嘉が、男二人女一人の映画撮るならトリュフォーより面白いもの撮る気でやってんのかって教え子にしたって話」って言ってました。
 もちろん、「突然炎のごとく」ですね。そのトリュフォーにも「映画を作る映画」の傑作「アメリカの夜」がありましたよね。
 この居酒屋シーンでは、イハちゃんが青くんに自己紹介する時に、自分の苗字を「城定秀夫監督と同じ城定」と言うセリフもありました。
 
 ヴェンダースも出てきた。
 これはかなり脇役の、喫茶店での会話だったけど、「ベルリン」が好きという子に、友達が自分が好きなのは「アメリカの友達」っていうんだ。
 あとで、マスターの芹澤興人さんが「アメリカの友人」だよね、って訂正してました。
 これ、「太陽がいっぱい」と同じパトリシア・ハイスミスの「天才詐欺師リプリーもの」です。
 
 本作のキーノートもしくは通奏低音って、多分これなんだよね。
 「友達と友人って、どう違うの?」
 
 本作ではたくさんの「友達」や「友人」や「知り合い」や「彼氏・彼女」や「元カレ・元カノ」が「輪舞」してますが、いちばん難しい定義が「友達と友人の違い」なんだよね。
 劇中では芹澤興人マスターが「一緒じゃない?」って言ってた。
 けど、違うよね。一緒じゃないよね。
 多分、一般的なニュアンスとしては、「友達」は身内で使う言語で、「友人」はもうちょっとオフィシャルな場で使う。あと、「知り合い」も、結構オフィシャル。
 だから、同じ人を、「友達」とも呼ぶし、「友人」と呼ぶ。あるいは場合によっては「知り合い」とも言う。それはその人との主体的な関係性の違いではなく、第三者に説明する際の、その第三者との客観的な関係性の違いのみに依拠する言葉の違いに過ぎない。
 
 第3幕白眉の、監督の町子さんVS古本屋の冬子さんの対決シーンで、冬子さんは町子さんに、青くんを「知り合い」と言ってる。そこにやってきたイハちゃんは、青くんを「友達」と軽々言ってのける。
 ここがエキサイティング。冬子さん、単語の選び方で初手から負けてるんだよね。
 
 でもさ。
 改めて序盤から観なおすと(それができるのが、劇場鑑賞じゃなく、配信の有難さ!)、最初のナレーションが、古本屋の冬子さんの声だって気づけるの。監督でもなく、青くんでもなくね。冬子さんであることが重要なの。
 冬子さんの立ち位置って、だから畢竟、「物語にずっと寄り添ってきたけれど、でも主役ではなかった」ってことで、しかし、「この物語を振り返る際には、自分が主体的な語り手」になってる人じゃないですか。
 それは、過去に観た映画を振り返る際の私たち観客の立ち位置なんだよね。
 
 一見ただの、ゆるいギャグが連続するコメディにしか見えない本作の凄いところは、これが「映画を作る映画」であると同時に、「あとで映画を反芻する私たちの視点」にもなってることなんです。
 などと、かなり論理的に語ろうとしたんですが、今日も書いてるうちに、焼酎が脳内に回り切ったので、論法としてかなり雑になったとも自覚してる。
 なので、今回のレビューはここまでにします。
 
 今晩一回座って、一回寝て、青くんの台詞的には一回「黙って」、それから明日以降読み返すようなことがあったら、推敲するかもしれません。
 
 あっ! あと、そうよ!
 青くんとマスターの会話の「文化って凄い!」「街も凄い!」ってところは、ヴェンダースの「東京画」を引き合いに出すと両方きっちり語れそうな気がしたんだけど、ここまで酔っちゃあ無理なんで、やっぱ一回黙ります!