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ラーヤと龍の王国のsanbonのレビュー・感想・評価

ラーヤと龍の王国(2020年製作の映画)
3.6
大事なことをはぐらかされた気分。

今作は「龍の石」と呼ばれる、かつて邪悪な魔物から世界を救った"魔力の塊"を巡って、人々が争い対立を繰り返す世界で、信じる事の難しさ、大切さを描いた作品となっている。

そして、僕がこの作品に対して最も気になり、最も明かしてほしかった真相がある。

それは、"龍の石は本当に魔物を退け封印する以外の恩恵を人々に与え得るものなのか"という点である。

これこそが、今作において人々がいがみ合い争い続ける"火種"となっているのだから、ここをつまびらかにしない事には物語上の決着はありえないと思うのだが、残念ながらそんな核心には一切触れることなく今作は幕を閉じてしまう事となる。

そして、主人公「ラーヤ」の父であり、龍の石が安置される「ハート」国の長である「ベンジャ」は、石にそんな力などはなく皆がそれを誤解しているから争いが絶えないのだと嘆き、5つに分断された国の代表たちを国賓として迎え、再びの五国統一を訴えるのだが、その会食の場で明かされた真実は、ハートの対立国である「ファング」の地では、ハートでは当たり前に食されている「白米」が非常に貴重なもので、食べるのは本当に久しぶりだという事であった。

この事実は、作中何気なく流されてしまうのだが、食に関するインフラやGDPは、その国の豊かさを計るうえでは最も分かりやすい"指標"でもあり、そこに格差が生じている状況を物語に盛り込まれると、純粋な正義として描かれていたハート国、ひいてはベンジャの本性すら、果たして額面通りの存在なのかに疑問が生じてきてしまう。

また、もし仮にベンジャの言うように、石には本当に恩恵を授ける力がないのなら、それが原因で争っている他の国があまりに滑稽だし、そんな誤解の果てに私利私欲で再度世界を混沌に陥れたファング国にはどうしても正義がなくなってしまう。

つまりは、この争いが飢えた果ての"救国的行為"なのか、更なる繁栄を独占せんが為の"略奪"なのかで見方がガラッと変わってくるという事なのだが、今作は明確なヴィランが存在していないのが一つの特徴でもあるというのにその点が不明瞭すぎるあまり、筋書き上は前者なのだろうがどうしても後者の印象のほうが強くなってしまっており、この"見栄えの悪さ"は結構ノイズに感じるところとなった。

その上、石の力なのかは置いておいて、確かな豊かさを備えた立場的優位にある国が、和平交渉などを含む"大人の話し合い"の場を設けないまま、どうか皆さん仲良くしましょうとお食事会を開くのは、普通にワンステップもツーステップもすっ飛ばしていてさすがにおバカがすぎる。

これでは、自国の豊かさをひけらかされていると勘違いされてもおかしくないし、相手は困窮しているからこそ力を欲しているというのに、余裕があるからこそ出来るお食事会など、普通に考えて相手の気を逆なでするだけであり、ちょっと頭がお花畑すぎやしないだろうか。

そう、今作は石の力の真偽を巡る戦争を軸に、その中で平和を願う戦いの物語でもあった筈なのに、そこに対する解決策の提示もなければ、各国の一番賢い筈の大人達がその役割を全うしないまま、話だけがぐいぐいと進行していってしまうのだ。

これでは、明確な悪を描かないという真意は汲めるが、逆を言えば明確な正義の所在すら、どこかおざなりな印象を抱いてしまう。

もちろん今作は「ディズニー」らしく、正義や悪は明確に割り切れるものではないといったような、複雑かつ哲学的な難しい内容が含まれている訳ではない正道をいくヒロイックものである。

だからこそ、石の力が人に与える影響についてはきちんと明言してもらいたかったし、その真相を明らかにしないことには、この作品が伝えたい「信じる」という事の意味が今一つ物語上昇華されないような気がした。

ちなみに余談だが、奪い合いの結果龍の石は5つの欠片にバラバラになってしまい、それらを集める旅に同行する"最後の龍の生き残り"である「シスー」が、その欠片に触れるたびに魔力を解放させていくのだが、その能力が「人型に変身できる」能力と「霧を吐く」能力以外全然役に立っていなかったのはなんでなんでしょうか。

むしろ「光る」と「雨を降らせる」とあともう一個なんだったっけ?って感じで、全然ストーリーに活かされてなくてびっくりした。

また、今作はディズニー初となる東南アジアを舞台とした作品であり、ポリコレ運動が活発化している昨今の情勢に沿う形で、配慮がなされた結果なのかなと事情を察するのだが、だったらキャラクタービジュアルにももっと配慮を効かせた方がいいんじゃないかと思うばかりである。

前々からうっすら気づいてはいたが、ディズニー…というかアメリカ人って、人物のデフォルメがあんまり上手くない。

黒人なら大きい鼻とたらこ唇、アジア人ならぼってりとした顔立ちで切れ長の目と角張った頬骨でガチャ歯(歯並びに特徴を持たせようとする)のように、いつまで経っても人種ごとの特徴を"極端"に"生々しく"表現しないと描き分けが出来ないから、どこからともなく非難が湧いて出るのだ。

そもそも、舞台をオリエンタルテイストにしたからといって実際のどこかの国が舞台になっている訳ではないのだから、風景や生活様式なんかをそれっぽくみせるだけでも全然問題ないような気がするのだが、今作でもラーヤはまだいいがファング国のプリンセスである「ナマーリ」なんかは、アメリカ人が思い描くザ・アジア人って感じだし、人型のシスーもなんか育ちの悪い(栄養や教養が行き届いてない)貧困層のアジア人のような見た目で、人種の区別をするにあたって何故こうも古臭いアイコンばかりになってしまうのか、ここまでポリコレに躍起になっているからこそ甚だ疑問でしょうがない。

こんな事、最近のディズニーが作品のイメージを破壊してまでポリコレに注力している姿勢などとっていなければ、個人的には特に引っ掛かる事なくスルーするような瑣末な事なのだが「リトルマーメイド」の「アリエル」を黒人にしたり「シンデレラ」の「フェアリーゴッドマザー」をゲイの黒人にしたり「白雪姫」にラテン系の女優を抜擢したりなどを見ていると、考えるべき事とやるべき事が根本的に間違ってる気がしてならない。

更に、声優に関しても「ケリー・マリー・トラン」や「オークワフィナ」など、アメリカ人がイメージするアジア人すぎるアジア人をわざわざ起用してくるなど、もはやここまで露骨にこれ見よがしなイメージの押し付けをされると、逆に差別されているような気分にもなってくるし、ここまでくるとめっちゃ無理して配慮したが故に結局空回っちゃったんだろうなというのが透けて見えてくるようでもあった。

やっぱアメリカ人ってナチュラルに遺伝子レベルで差別主義者なのかな???
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