YAJ

戦争と女の顔のYAJのネタバレレビュー・内容・結末

戦争と女の顔(2019年製作の映画)
3.4

このレビューはネタバレを含みます

【赤と緑】

 淡々と綴られた戦争の傷痕からの再生の物語。

 邦題は、原案となっている『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ著)からの拝借だろう。ロシア語原題は「Дылда」(ディルダ)、「のっぽ」と称される主人公のひとりイーヤ(ヴィクトリア・ミロミニチェンコ)の180㎝超えの長身からくる呼びかけを採ったものだった(そこにいかなる意味を持たせたかは分からなかった)。

 1945年、独ソ戦直後のレニングラード(現サンクトペテルブルク)。病院に勤めるイーヤのPTSDによる発作発症シーンから幕を開ける。かなり不穏な雰囲気が漂う。発作は日常的に人知れず起こるようで、それがまた不幸を誘発する。イーヤの元に戦友マーシャ(ヴァシレサ・ペレリゲナ)が帰還し、物語はこの二人を軸に紡がれる。

 ひたすら物哀しく、時折垣間見える希望の光も、チラチラと明滅する電力供給不足の裸電球のようで、灯ったと思えば消え、また灯っては消え・・・。そういえば、イーヤとマーシャの久しぶりの邂逅シーンもコムナルカ(共同アパート)の一室で、停電の中、手探りで灯したわずかな光の下でのことだった。

 あらゆるシーンが印象的、かつ切なく物哀しい空気感を湛えていて見事な映像作品だった。 
 2019年の作品が、ロシア/ウクライナ戦争が勃発した今、また別の意味合いを持って胸に迫る。時代は70年以上前の過去の話だけど、今また新たなイーヤやマーシャが生み出されているということを暗澹たる気持ちで思い馳せなければならない。
 哀しい現実にも目がいくことになる作品でした。



(ネタバレ含む)



 絵画のように美しい映像を眺めながら、あれこれ想像を膨らませていた。この美しい舞台は、街ごと博物館と言われるSt.ペテルブルグの存在感があってのことだとは思うが、その風景を眺めるだけでも眼福の作品(屋外ロケは少なめだったけど)。ドイツによる過酷な包囲戦を生き延びた直後にしては、ずいぶん復興も進んだという印象は持ったが、そのあたりの時代考証もしっかり為されてのことだとは思う。

 美しさの要因のひとつは、なにより色使いの妙だろう。敢えてのことだと思うが、赤と緑が実に印象的に使われていて目を奪われるシーンが多い。
 導入の舞台となる病院は白と緑の壁だ。イーヤも緑の服装をしている。それに対してイーヤが預かり育てているマーシャの子パーシュカは赤いセーターだ。そこに赤毛のマーシャが帰還してくる。ふたりしてコムナルカの自分たちの部屋の壁を緑のペンキで塗りたくる。マーシャは時折、赤い鼻血を流す。そして、幸せを手繰り寄せようと身にまとうワンピースは綺麗な緑だ。マーシャが悲しみに暮れる時に迎えるイーヤは鮮やかな赤いセーターを着ている(フライヤの画像のシーン)。
 これが赤と白なら、共産主義と、それに対する反革命派のイメージだけど、そうじゃない(党幹部の屋敷が白っぽかったり、白いボルゾイを連れていたりと特権階級を意識させるような白の使い方はあったかな?)。 ※RUSSIA BEYOND記事ご参照:https://jp.rbth.com/blogs/2013/11/14/46015
 となると、赤は単純に血の色、戦争のイメージ?? 原案書にあった
「戦争の映画で色つきなんてありえる?戦争はなんでも真っ黒よ。血だけが別の色・・・血だけが赤いの・・・。」
 という戦士の証言が思い出される。

 緑は芽吹きや再生からくる希望を象徴する色か。その赤と緑が交錯するように、いろんな場面で印象的に使われていて目に焼き付く。あたかも戦争で刻み込まれたイメージは容易に拭えないと訴えかけてくるかのように。
 色使いについては、ロシアをよく知る識者の皆さんと、またじっくり語り合いたいなと思いました。

 原案となったアレクシェーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』の中に、復員してからワンピースを初めて着たら涙が止まらなかったといった戦士の証言があったやに記憶する(うろ覚え。「スカートなんか見るとゾっした」ってのもあったな)。
 借り物の緑のワンピースを着て(それが“借り物”ってところも重要か?!)、はしゃぎ、踊り、くるくると回り続けるマーシャの姿は、これから手にせんとする幸せに浮かれるというより、戦争の狂気の一端のようでもあった。

 そんな狂気をも纏い戦後を生きるふたりの姿を通し、戦争の悲惨さや死の恐怖だけではなく、「人が生きるとは」を書こうとしたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの思いを汲んだ内容になっていたと感じた。
 非常に良い作品です。
YAJ

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