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ラ・フロール 花の作品紹介

ラ・フロール 花のあらすじ

制作期間10年、868分の超・長尺の圧倒的なボリュームで既成の映画のあり方に対峙し、ロカルノ・トロントを始めとする国際映画祭で批評家の絶賛を浴びたアルゼンチンの鬼才マリアノ・ジナスの3つのパート、6つの独立した物語で構成される極大映画。ジャック・リヴェットの精神性を引き継ぐとも評される本作を、ジナス監督は自ら「フィクション版『ゴダールの映画史』」と呼ぶ。ボルヘス・コルタサル・ボラーニョの語りの遊戯性を想起させる「終わらない映画」。

ラ・フロール 花の監督

マリアノ・ジナス

原題
La flor
製作年
2018年
製作国・地域
アルゼンチン
上映時間
868分
ジャンル
ミュージカル

『ラ・フロール 花』に投稿された感想・評価

3.8
 上映時間何と808分。休憩を除いて13時間27分。数年前のイメフォには行かずに、下高井戸シネマで3夜連続上映という心底とち狂ったイベントが完遂!! アルゼンチン映画史上最長にして、非実験映画としては世界で3番目に長い映画らしい。マリアノ・ジナスの『ラ・フロール 花』は、その異常な長さゆえに常に語られる作品だが、真に注目すべきはその長さそのものではない。この映画が提示するのは「映画とは何か」という根源的な問いへの、極めてラディカルで、同時に驚くほど愛に満ちた回答なのだ。制作期間10年。4人の女優、エリサ・カリカホ、バレリア・コレア、ピラール・ガンボア、ラウラ・パレデスを主演に据え、6つのエピソードを紡ぐ。ジャンルはB級ホラー映画、ミュージカル・メロドラマ、スパイ・スリラー、メタフィクショナルな映画内映画、ジャン・ルノワールへのオマージュ、そして19世紀の荒野からの帰還譚。ジャンルも時代も場所もバラバラなこれらの物語を、ジナスは花の構造になぞらえて配置する。冒頭、監督自身がアルゼンチンの寂れた道路脇のテーブルに座り、ノートに花の図を描きながら、これから始まる長い旅路を説明する。疲れ切った表情の彼は、まるで自分が作り上げた怪物について語るフランケンシュタイン博士のようだ。そして観客に向かって、半ば謝るように、半ば誇らしげに言う。この映画が何についてのものなのか、説明しようと思うと。

 この導入部から、『ラ・フロール』は観客を挑発し、誘惑し、そして時には疲弊させながら、映画体験の限界を押し広げようとする。それは単なる実験ではない。ジナスは明確に物語ること、そして物語を観ることの快楽を追求しているのだ。ただし、その快楽は通常の映画が提供するものとは全く異なる種類のものだ。ジナスが描く花の図は、この映画の構造的骨格を示している。6つの花弁のうち、4つ(エピソード1〜4)は上向きに開いており、これらは「始まりはあるが終わりのない物語」を表す。エピソード5は完結した物語であり、花の中心の半円として描かれる。そしてエピソード6は下向きの矢印で、「始まりはないが終わりのある物語」だ。この構造は、単なる遊びではない。ジナスはここで、物語の本質的な要素、始まり、中間、終わりを解体し、再構成している。我々は通常、物語が完結することを期待する。カタルシスを求める。しかし『ラ・フロール』は、その期待を意図的に裏切り続ける。最初の4つのエピソードは、それぞれが盛り上がりかけたところで唐突に終わる。観客は「え、ここで終わり?」という困惑と共に、次のエピソードへと放り込まれる。この体験は、最初は不満を生むが、次第に独特のリズムを持ち始める。我々は「完結」を求めるのをやめ、「継続」そのものを楽しむようになる。まるでシェヘラザードの『千夜一夜物語』のように、語りそのものが目的化していく。

 この複雑な構造を支えるのは、4人の女優たちだ。ジナス自身が「この映画は彼女たちによる、彼女たちのための映画だ」と明言する通り、『ラ・フロール』は何よりも女優映画だ。エリサ・カリカホ、バレリア・コレア、ピラール・ガンボア、ラウラ・パレデス。彼女たちは劇団Piel de Lava(溶岩の皮膚)のメンバーであり、ジナスは2005年に彼女たちの舞台を観て、この映画を構想し始めた。10年の歳月をかけて撮影された『ラ・フロール』は、彼女たちの成長の記録でもある。興味深いのは、4人の女優が物理的に似ているという点だ。全員が黒髪で、肌は白く、体型も似通っている。ある批評家は彼女たちを「テーマのバリエーション」と評した。一見して誰が誰かを区別するのに少し時間がかかるのだ。この曖昧さは意図的なものであり、エピソードごとに彼女たちが全く異なる役を演じるとき、観客は常に僅かな混乱の中に置かれる。しかしこの混乱こそが、映画の魅力の一部だ。我々は彼女たちを個々の俳優としてではなく、何か超越的な存在、映画そのものの化身のようなものとして見始める。彼女たちは科学者にも、歌手にも、スパイにも、魔女にもなる。そしてその変容を目撃することが、『ラ・フロール』の中心的な快楽なのだ。

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 Filmarksに2016年1月1日に最初の文章を書いてから、今日で丸10年になります。最初の頃は私の書いた文章など果たして読んで下さる方がいるかと思っていましたが、Filmarksさんには数週間目で人気ユーザー50名に選んで頂きました。それから10年間ずっとFilmarksの顔の1人として選んで下さり、Filmarksさんと読者の皆様には感謝してもしきれません。もともと1日1本、本音レビューを目標に頑張って来た更新も今日で丸10年が経過しました。正確に言うと、途中ラジオのディスクジョッキーを担当した時だけはそちらに集中しましたが、のべ10年間で3004本もの本気の作品評をコツコツとアップして来ました。私がここまで続けて来ることが出来たのも、読者の皆様の励ましといいねに支えられたおかげです。本当にありがとうございます。

 インターネットや配信ではなく、なるべく多くの作品を映画館で観ることをモットーに10年書き続けて来ましたが、昨今の日本国内における映画状況/環境は日に日に過酷さを増していると言わざるを得ません。近いところでは新宿シネマカリテや池袋シネリーブルの閉館、そしてワーナー・ブラザーズ・ジャパンの洋画配給からの撤退が現わす本当の問いとは何でしょうか。東京で30年間映画を観続けるいち観客としても、厳しい肌感に変わりはありません。国内の急速なインフレーションや相次ぐ物価高騰に対し、私も何とか無料更新を続けて参りましたが、そのような単なる個人の痩せ我慢で映画鑑賞料を賄い続けるのも率直に言って厳しいと近年はひたすら悩み続ける日々です。

 10年前の当初、気軽な気持ちで始めた1日1本、本音レビューがいま、明らかに岐路に立たされている。書き手としてはこの状況下で向こう10年間、なるべくストレスフリーにどうやって書き続けることが出来るのか自問自答して来ました。キネマ旬報や映画芸術、映画秘宝等の稀少になりつつある商業雑誌メディアに書き続ける評論家/ライターがいる一方で、私の様に好きなことを映画会社のスタンスとは関係なく、自由に論評するネット発の書き手もなくなってはならないと考えています。

 何よりここ3年は現場第一主義を掲げ、年に1000本鑑賞し、いま映画館で何が起きているのかをつぶさに見て参りました。その上で邦画・洋画に偏りがなく、公平・中立な視点で大局的に物事が見える立場で出来るだけ俯瞰で今の映画状況を見つめています。その上で10年という節目の時を前に、いち書き手としても今後のビジョンについて熟考して参りました。これまで通り、1日1本映画レビューをアップすることは私にとってはそんなに難しくありません。然しながら今のルーティンをただ続けていても、読者の皆様に対して、我々観客が一体どうすべきなのか未来へのビジョンが見えないのも正直なところです。ただ単に自分が映画を観て感じたことを自由に書くだけのレベルはもうとっくに終わりを告げているのに、今のヒットポイントで今後の日本の映画界に立ち向かうことが果たして出来るのかを自分自身、何度も自問自答しています。書き手の私にとっては苦渋の決断ですが、マネタイズ出来る別のフォーマットへの引っ越しを決断しました。Filmarksさんにはこの10年間の道程を温かく見守って頂き、ひたすら感謝しかないです。新たなサイトでは、ずっと応援して下さっている方には、より有益で歯に衣着せぬ情報を発信していく所存です。

 今後は長文の映画評に加え、趣味である音楽評や映画業界の考察に関しては、noteの有料記事で発信していきます。10年間ここで書いて来た熱量は薄めず、むしろ今一歩踏み込んで行く所存です。映画考察のスタンスとしてはもっとディープに、私の内面吐露もこれまで以上に頻繁に行いながら、現場第一主義者としての屈託なき感想や批評も加えられればと思います。もし、これまでの文章に一度でも何か感じて頂けたならば、次の場所でも読んで頂けたら幸いです。無料で読める記事も引き続き多数公開します。映画ニュースや短評、おすすめ記事などは無料で提供しますので、これまで通り気軽にお読みいただけます。

「もっと深く知りたい」
そう思ってくださる方だけ、有料記事をご覧ください。

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https://note.com/compactdisco

 10年間、本当にありがとうございました。沢山の思い出があります。宜しければ新しい場所で、また映画について語り合いましょう。
[引きちぎられた12時間30分の花びら] 50点

840分に及ぶ大河のような本作品は、髭面のマリアーノ・シニャスがその特異な構造について解説するシーンで幕を開ける。まず本作品は、始まりを持ち途中で終わる四つの物語、始まりと終わりを持つ一つの物語、途中から始まり映画を終わらせる一つの物語、合計六つの物語で構成されている。最初の四つは花弁のように自由に伸び、五つ目はそれらをまとめる"がく弁"の役割を果たし、六つ目は茎として全てを成立させる役割を持っている。そして、それぞれがジャンル映画としての側面を持つ。一つ目はアメリカ人が目を瞑って作ったようなB級映画、二つ目はミステリー仕立てのミュージカル、三つ目はスパイ映画、四つ目は映画の迷宮についての映画、五つ目はジャン・ルノワール『ピクニック』に着想を得ており(というかサイレントにしたリメイクだが)、六つ目は19世紀を舞台にした歴史劇である。

また、この映画はラウラ、エリサ、バレリア、ピラーという四人の女優についての映画であり、彼女たちのための映画でもある。四人はそれぞれの作品で異なる役を演じることで、全てを一つにまとめる役割を果たす。彼女たちは Piel de Lava と呼ばれる四人組の劇団のメンバーであり、中でもラウラはマティアス・ピニェイロ作品に出演するなど四人の中では比較的知名度もある。ちなみに、ピニェイロのミューズであるアグスティナ・ムニョスも第三部で投げナイフの達人バルバラとして登場している。

★第一部 我が怒れる姉妹は戦闘準備を命ずる(ルネ・シャール)

田舎にある考古学研究所で働く四人の女性考古学者と届けられたミイラの呪いについての物語。80分。役名はそれぞれ順にルチア、マルセラ、ジャニナ、ダニエラ。最初の話だけあって四人の判別に時間を割いていると言っても過言ではないが、15時間あるのでその余裕が違う。四人目のダニエラなんか1時間以上経って漸く登場するのだ。冒頭の8分近い長回しの中で、連休直前の慌ただしい研究所を憂鬱そうな顔をしてまとめるマルセラがまず登場し、早退する同僚の穴埋めや洗浄液の使いすぎなど日常的な問題に対処する。出張中の上司が謎の荷物を許可証無しで送りつけてきてからは同僚のルチアが中心となって長回しを引き継ぎ、華麗な反復を魅せる。騒々しい8分間もの長回しの後、スパッとカットが切り替わり、上司が送りつけてきたミイラが静かに現れる。華麗なる静と動の対比。なぜかちょっとピンボケしているミイラの静かなショットが逆に薄気味悪さを助長する。

物語は夜中にミイラの掃除を頼まれたジャニナが、その呪いに掛かってしまって凶暴化してしまう話を中心に展開する。ミイラの目隠しを取ると粘土細工の目玉がこぼれ落ち、目の部分が光り輝くとネコの目のショットに重なるなど、目にクローズアップした挿話になっていて、一応ハンディカメラが顔のクローズアップしか使わなかった理由には繋がってくる。全体をピンぼけにする理由はよく分からない。

休日返上で働かせるパワハラ上司への怒りや権力を振りかざして関係を迫る変態刑事など、迷惑な男たちの挿話がミイラの呪いという超自然的現象に社会的かつ現代的な視点を与えて地に足をつかせる役目を負っている。犠牲者を出しても尚ぶーたれる上司にマルセラが息継ぎする時間もないくらいの速さでブチギレるシーンや、変態刑事が文字通りボコボコにされるシーンは圧巻。

ミイラの対処にやってきたダニエラは心配そうに見つめるルチアに対して"もっと悪くなってたかも、彼女は三人の女王のうちの一人だ"と言うシーンで終わる。15時間の幕開けとしてはこれ以上ない幕切れ。

★第二部 気を付けろ、世界が背後に迫ってる(ヴェルエット・アンダーグラウンド)

歌手の元カップルが歌の再録をする裏で奇妙な組織が動き始める話。135分。役名はそれぞれ順にフラビア、イサベラ、アンドレア、ビクトリア。男女デュオとして成功したリッキーとビクトリア。今では別れているものの互いに中々の未練があるようで、デュオ曲の再録を別々にレコーディングするが全く上手く進まない。ビクトリアは付き人のフラビアに、リッキーは現恋人(?)のアンドレアに、デュオ誕生秘話に隠された裏話を語り、各々の心情を整理していく。回想パートは語り直しによって幾重にも重ねられ、モノクロで撮られた非現実感も相まって、それが美化されているのか、或いは逆に美化された誕生秘話から引き剥がすように闇に染められたのか判別しにくいようになっている。第一部よりも動きのない長回しを多用し、後の話の展開から特に必要もない部分だったことは明白なので、接合の無理矢理感に少々呆れる。

というのも、フラビアは"グループ"と呼ばれる怪しい集団所属だったようで、再録のプロデューサーであるフランクに脅されたり、以前の知り合いマルコスに付けられたりしているのだ。遂には、マルコスの新しい上司であるイサベラと対面し、フラビアが手に入れたセンチュリオンという伝説的なサソリの毒を使った"若返り"を目的とする実験に突き合わされることになるのだが、構造上終わりがないのに135分も引き伸ばす意味は理解できなかった。

四人全員が協力していた第一部に比べて、フラビアとイサベル、ビクトリアとアンドレアという対立やそれぞれのバックグラウンドなどは作り込まれているからこそ、現実的な再録パートと荒唐無稽な"サソリ"パートの接合をもっと上手くやってくれたら、と無念でならない。

ただ、登場する歌はめちゃくちゃ良い。ビクトリアとリッキーの再録曲、リッキーとアンドレアの新曲、アンドレアの過去曲が流れるが、どれも素晴らしい。"ミュージカル"と銘打たれた第二部の最終盤で、ビクトリアとリッキーが共同収録に臨み、鬼の形相で歌詞の通りの喧嘩を繰り広げる姿は圧巻。こっちに軸足を置いて60分なら傑作だったかもしれない。

★第三部 宇宙は夜の中にある(ネルヴァル)

誘拐されたロケット工学者ドレフュス教授を回収した四人の女スパイと、彼女たちを殺そうとする別の四人組女スパイの戦いの話。340分。役名はそれぞれ順に301、エージェント50、ラニーニャ、テレサ。80年代の南米の森林で、追手から逃げる女スパイたちと人質は、自らが命を狙われていることに気付き、裏切ったメンバーと襲撃犯を殺害する。彼女たちは一枚岩ではなく、業界の危険人物の詰め合わせという感じで、雇い主カスターマンに一番近く仕切りたがりのエージェント50が一応のリーダーを務めている。そして、彼女たちを殺そうとしたのはその雇い主カスターマンであり、彼の下で"マザー"という元締め率いる四人組の女スパイが暗躍していたのだった。

340分という長尺の多くは、二つのグループの戦いではなく、四人の女スパイが如何にして南米の森林に辿り着いたかという回想に使われている。西ベルリン留学時代にスパイとしてスカウトされ、ロンドンでローゼンタールという老人の事務所に潜入することになるテレサ、伝説のゲリラの娘でありながら政府に逮捕されて古い同胞を殺すことになったラニーニャ、何年にも渡って何度も恋人役を演じる心のない男スパイに仄かな恋心を寄せる301、ソ連諜報部時代に機密漏洩事件に巻き込まれたエージェント50。まるで『サラゴサの写本』のように入れ子状になった物語が不均一な長さで並べられ、その殆どが男女二人のナレーションが交代する仕様になっている。そして、ハンディによるクローズアップが多用されていた前部や前々部に比べると、多くは近くてもバストショットまで、フィックス長回しを多用している今回のパートは、登場人物のミステリアスさも相まって、少し俯瞰して見ているような感覚に陥る。挿話の合間には、飛行場でマザーたちを迎え討つ準備をする四人や、回想の語り部であるカスターマンの現状などが挟まれ、挿話の時間と挿話間の経過時間が緩くリンクすることで、まるで6時間彼女たちと夜を明かしたかのような錯覚も覚える。

ただ、緊迫した静かな空気の流れる現在パートに比べて、所狭しとナレーションの並べられた回想パートは明らかに情報過剰でダサい。四人とドレフュス教授の間で言語を変えて会話するなどの工夫が、回想パートではナレーターがスペイン語に塗りつぶしているなど、徹底しきれてない部分も散見された。それでも、初めて四人が並んで一画面に現れるラストシーンは圧巻。四人が揃うシーンはここ以外のどのシーンも優れている。

★第四部

6年も映画撮影を続ける監督が女優たちそっちのけでピンク色の"イペー"という木とそれに咲く花を撮影しに行って失踪し、別の男がそれを調査する話。190分。役名はそれぞれ実名。製作に10年掛かった本作品の裏側を象徴するかのようなカオスなパートであり、四人の女優は実名で『蜘蛛』という作品を6年撮影しているという設定になっている。物語は大きく分けて3つのパートに分けられる。撮影が全く進まない中でも女優たちを無視してロケハンに向かおうとする監督と彼女たちの口論を描いたパート、旅先で女優以外の中核メンバーが六部構成の大作映画『蜘蛛』について展開を考えあぐねる姿を描いたパート、森の大木の上に車が置かれるという超常現象を調べる男が車の持ち主である監督の日記を読んでその足跡を辿るパートである。第三部までの9時間半で三回ほど行われてきた"始まりを持ち途中で終わる物語"を意識しすぎたのか、今まで以上に尻切れトンボ感と"鑑賞者を引きつける謎"を詰め込んだだけのパートに見えてくるが、これは12時間半同じようなことを繰り返してきたことへの疲れなのかもしれない。シニャスはそれに気付いてか劇中の監督に"観客はこれまで嫌になるほど同じようなシーンを見せられて、ファンタジックな要素は減ってる"と言わせている。同意。

女優たちの役割は実名で自身を演じているようで、魔女になったり、カサノヴァの妾になったりと役柄を演じているようでもあり、これまでのパートに比べると存在感は格段に薄い。全体の流れ、及び冒頭でシニャス本人が"四人の女優についての映画だ"とヒントを出していることを考えると、一見存在意義のなさそうな彼女たちの役割は他の部との対比で浮かび上がってくるのだろう。リアルとフィクションの瀬戸際に立つ奇妙な物語は、四人の女優たちが無言で橋の下や森の中、川沿いの土手に佇む姿を捉えたラストシーンに顕著だ。彼女たちは本人であり役者である。そこに境目はないのだ。

★第五部

ジャン・ルノワール『ピクニック』をモノクロサイレントで現代に完全再現した話。47分。四人の女優は一切登場しない。冒頭でシニャスが明かした通り、始まりを持って終わりを持つ唯一のパートなのだが、そりゃ『ピクニック』を完全再現したら始まりも終わりもあるでしょうと思ってしまう。ちなみに、小舟で男女が遊びに行くシーンは現代らしく(?)複葉機のアクロバット飛行の映像に置き換えられている。そんな感じの現代アレンジは妙に様になっていて、『めまい』を再構築した『The Green Fog』を初めて観たときの"あのシーンがこんなタッチで再現されるのか"という感覚を思い出した。シニャスとしては崇拝するジャン・ルノワールの作品の中でも一番の傑作としている『ピクニック』をシャドウイングすることで、その技術やスタイルを学び取ろうとしたらしい。

これまでの四つの部をまとめる"がく弁"の役割を担っていたかと言うと、正直微妙。私がそんなに『ピクニック』が好きじゃないってのもあるのかもしれないが、この47分に風呂敷を広げるだけ広げた12時間半を押し付けるのは不足が大きい気がする。

★第六部

ネイティヴ・アメリカンに誘拐され、そこから逃げ出した白人女性サラ・S・エヴァンズの日記を基に、四人の女性が荒野を彷徨う話。30分。"途中から始まり映画を終わらせる一つの物語"と言及されていた通り、いきなり荒野を彷徨っている彼女たちは、それほど仲が良いというわけでもなく、川を越えて人のいる場所を目指して歩き続ける。彼女たちのうち少なくとも二人は妊娠しており、四人の寡黙な旅の前後に何があったか/何が起こるかを暗示させている。カメラ・オブスキュラに投影された朧気なイメージに薄茶けた中間字幕という"ありそうでない"サイレント映画の手法で製作されており、景色だけは驚きだった。ただ、本当に"ただ終わらせるだけ"の内容にも思えてくるので、15時間も理論先行の茶番に付き合わされたのかと思うと頭が痛くなる。

840分の中で女優の役割、演技の役割も変化していく。第一部では四人の女優の会話、第二部ではそこに演者による回想が挿入され、第三部ではナレーターによる回想が挿入される。そして、第四部では女優、魔女など様々なラベルを貼られながら現実と虚構が入り混じり始め、第五部では完全に姿を消す。第六部は映画以前の原風景と捉えると、映画芸術を支えているのは物語であり景色であり、そして鑑賞者の想像力なのだと言えるのかもしれない。そこから辿っていくと、『ピクニック』は師匠の師匠みたいな立ち位置で、残りの四つはそこから技術を"盗み取って"発展した"ジャンル"として見ることも出来る。シニャスはジャンル映画について"映画製作者が自分たちの好きなことにたどり着くための方法だと思う"としており、ジャンル映画のクリシェを敢えて使うことで、それらを皮肉として突きつけているのかもしれない。また、部を経るごとにナレーションが増えていき、同時に声を出す演技が減っていき、遂には完全無音(第五部)とサイレント&中間字幕(第六部)になるのも、演技や表現手法についての段階的な変遷を見せつけているのだろう。

ただ全体的に、まるで学会発表かのような堅苦しさと理論先行の感がある。第四部で監督一行が"蜘蛛"という概念に縛られすぎていたように、本作品は"花"という概念に縛られ続けているのだ。特に前半の四部は魅力的な風呂敷を広げることだけを目的としていて、"花"という形に沿うように、シニャスの考える理論を映像として解説するだけに終始したようにしか見えてこない。それぞれの挿話が概念的な意味しか持っていないので、あらすじ読んでちょろっと中身を観て、監督の理論をあれこれ考えればいいだけなのではないか?

この長い映画を通して、ナレーションがぐちゃぐちゃ入る映画が非常に苦手だということが分かった。第一部の高揚感、第二部の歌、第三部の設定、第六部の映像に免じて評価を付けるが、正直これを観る必要はないと思う。"策士策に溺れる"とはこの映画のためにある言葉だ、と私は思った。
1.0
【100%勇気 もうやりきるしかないさ】
2020年に結局観られなかった14時間映画『LA FLOR』に挑戦しました。アルゼンチンの鬼才Mariano Llinásは長編劇映画デビュー作『Historias extraordinarias』から4時間を超える超長尺映画を製作している。『Historias extraordinarias』から8年ものの歳月をかけて作られた『LA FLOR』は全6章に分かれた約14時間に及ぶ超大作であり、Elisa Carricajo、Valeria Correa、Pilar Gamboa、Laura Paredesが毎回ガラリと変わる映画のジャンルに合わせて別の役を演じている。冒頭では「世にも奇妙な物語」におけるタモリのような人物が現れ、本作の特徴を図解で示してくれます。4つの自由な物語を束ねるように1つのエピソードがまとめ、最後の1つで映画を花のように彩る。

1部:アメリカのB級映画オマージュ
2部:ミュージカル
3部:スパイ映画
4部:映画についての映画
5部:『ピクニック』のモノクロサイレントリメイク
6部:歴史劇

の順番で物語が紡がれていくのだが、時間配分がかなり荒ぶっており、第6部が30分程度なのに対して、第3部は6時間近くあるのだ。そんな化け物みたいな作品を2020年の年末から観始めた。尚、米国iTunesでは3つのPARTに分割されており、PART1:第2部、第2部/PART2:第3部/PART3:第4部〜第6部となっています。

★第1部:アメリカのB級映画オマージュ
荒涼とした空間に車が一台ある。そこで女性がレイプされるところから始まる。タランティーノがやりがちな強烈なズームにアメリカB級映画の香りが漂うが、何も退屈さまで再現しなくてもと思う。『デス・プルーフ』のようにアンニュイさを魅力にできるならまだしも、あまり面白くはない。ただ、時折、B級映画にありがちな思わぬ笑いを再現しているところは興味深い。考古学研究所に送られてきた目に布を巻かれた骸骨。その布を取るとゴロンと瞳の形をした石が落ちるところや、スカイプ通話中に知人から電話がかかってきて、会話をすると突然悲鳴が聞こえてきて、動揺するのだが、何故かスカイプの先にいる女性がこの世のものとは思えない絶叫顔芸を見せてくれるところに爆笑します。本作はミイラの呪いにかかり『エクソシスト』ばりに大暴れする女を鎮める物語であり、謎の配電盤のコミカルな電気信号の音やクラシックゾンビ映画のような趣気を持ったまま80分を駆け抜ける。なんだかMUBIにアップされそうな少しだけ面白い退屈な映画であった。

★第2部:ミュージカル
ミュージカル映画好きとしては許せなかった。美味しい食材を前に適当な調味料で味付けしたような映画であった。フランスのシャンソン映画を彷彿させるドラマであり、歌の収録により、登場人物が過去と対峙していき、不協和音と共に妥協点を見つけていく話である。『25年目の弦楽四重奏』という傑作が、音楽の不協和音をアクションとして描き、人間関係の不和を重厚に描いていたのに対して、こちらは人間関係の不協和音を歌の掛け合いの力強さで表現する。音楽が良いだけにクローズアップの切り返しだけでミュージカルを表現しようとしているところに腹が立ってきた。確かに、ミュージカルというよりかは人間ドラマに力点を置いているのだが、それにしてもミュージカルを軽視しているようにしか見えなかった。尚、第2部は2時間ちょっとの作品であるのですが、1時間経過したところにインターミッションが存在します。

★第3部:スパイ映画
黒づくめの男が右へ、左へ、まるでメタルギアソリッドに出てくる雑魚敵のような動きでフレーム内を移動する。背後を見ると、草むらがガサガサ揺れており、女が忍者のように鋭利なものを投げつけて敵をやっつける。そして人質携え、4人の女は潜入作戦を敢行するのだが、途中で仲間割れが生じて銃を向け合う。それぞれの女は銃の構え方が異なり、銀の拳銃を持つ女や、二丁拳銃のような持ち方で睨むような女がいる。それが最後には、有名な劇中写真のように一列に並び銃を構えるようになるプロセスを6時間かけて紡ぎ出していく。正直、スパイ映画が007は別格として得意ではないので、話自体は退屈だ。韻を踏んだ饒舌なナレーションも鬱陶しく感じる。しかしながら、銃の魅せ方、スリルの魅せ方だけはカッコいい。中国軍との一触触発な状態で、中国語の原稿を読み上げ、一難乗り切る場面に始まり、盗聴する敵を翻弄するために、トランクから再生機のスイッチを推し、女に原稿を喋らせる演出。ターミネーターのような男が「プロトコミンスカ、、、プロトコミンスカ、、、」と呟きながら一人ずつ血祭りに上げる場面など面白い表現が多い。また、本作は映画史にある通俗な映画に対して愛を捧げているので、街中でスパイ同士が愛を確かめ合うのはいいのだが、露骨に銃を持ちながら街を颯爽と歩く異様な場面が映っていたりします。よくよく考えれば、冒頭の女スパイ同士銃を向け合う場面では、銀色の拳銃を構えるスパイはリロードする必要があり、銃を構えたところで脅しにもならないはずだ。次のカットではどうやらリロードが完了したような銃の形をしていたので、ひょっとしたら撮影ミスだったのかもしれません。

第2部までは2021年ワースト映画候補かなと思ったのですが、第3部観て、案外そうでもないなと思いました。時間の問題さえ解決できればイメージフォーラム界隈でヒットしそうな映画である。

★第4部:映画についての映画
スランプに陥った男の映画製作を描いた話。要するに『8 1/2』や『バートン・フィンク』のような俺様スランプ、俺様映画史映画だ。この手の映画は監督の映画愛が凝縮されており面白いのが相場と決まっているのだが、本作は退屈な拷問であった。道に木を止めて撮影するクルーと監督の自問自答が交互に映され、紫の花をつけた木をホームビデオに取りながら、「ああじゃない、こうじゃない」と唸る様子を30分近くも魅せられるのだ。流石は14時間の尺があるだけあって時間の使い方が凄まじい。そして本作が、映画で花を咲かすという理論に頭でっかちとなってしまっているのをメタ認知し始め、この物語では蜘蛛の身体を物語に例えてちっちゃかめっちゃか苦悩しているのだ。それでペドロ・アルモドバルの最近の映画のような印象的なヴィジュアルからデカダンスを染み込ませる演出を盛り込んでいく。そんなMariano Llinásの自慰は、10年近くかかった虚無の轍を観客にまで押し付けてただただ苦痛だし、そもそも4つの花弁を纏める物語はこれではないのかと疑問が湧きます。確かに後述するが、全体を通して考えると、第5部にこの物語があっても不細工になってしまうのだが、それにしてもこれじゃあ、茎とか、花弁の軸が花弁になってしまっているキメラですよ。

★第5部:『ピクニック』のモノクロサイレントリメイク
皆さんご存知の通りミシェル・アザナヴィシウス監督の『アーティスト』は、クラシック映画のパッチワークをすれば映画ファンを騙せるでしょと軽薄な意志で作られた駄作なのだが、その道をMariano Llinásも歩んでいました。ジャン・ルノワール『ピクニック』を白黒サイレント映画としてリメイクしたものなのだが、サイレント映画が少ない今にサイレント映画を撮ればウケるのでは?という底の浅さが際立つ。トーキーになってから映画は崩れたと言われる程に、サイレント映画はヴィジュアルのメディアである映画の根幹を支えており、カットの繋ぎや空間演出をストイックにこだわらなければならない。それはセリフがなくても、字幕に頼らなくても物語が分かるべきなのだ。しかし、本作は『ピクニック』知っているでしょ?とあぐらをかき、カットの繋ぎで躍動感を魅せることはしない。しかも、飛行機雲でハートマークを描くシーンがあるのだが、潰れてしまっている。これでOKしてしまったのが許せません。理論で頭でっかちになる映画を作るなら、せめてこういうところ拘ってほしい。木々の後ろを白飛びさせ、人を強調する演出で満足しないでほしいと思う。

★第6部:歴史劇
最終章もサイレントなのだが、中間字幕がついており、朧げに映る女性の逃避行が淡々と映し出される。100年前の映像を掘り起こしたかのようなノスタルジーがそこにある。Mariano Llinásは長い長いジャンル映画の脱構築を通じて、ようやくガイ・マディンの理論に行き着いたらしい。サイレント映画時代こそが究極の映画だという理論にそって、太鼓昔の映画を発掘し、そこへ現代の世界を近づけることで異次元の映画を生み出す技法をMariano Llinásも見出していたのだ。確かに、このエピソードは総てを終わらすものとして説得力があり、映画全体を支える存在としての風格があった。

★『LA FLOR』総括
実は、本当の勝負は6章終わってからにある。なんと本作のエンドロールは36分もあり、上下逆さになった世界で、撮影班がバラし作業しているのを延々と映しているのだ。なのでインディーズバンドのライブかよと音楽も5曲ぐらいやっていて大草原不可避だ。最後の最後まで困惑します。

結局『LA FLOR』はなんだったのだろうか?

私はMariano Llinásの意識の流れだと思う。アメリカのB級映画のオマージュから入った本作は、やがてサイレント映画の魅力に気づき、最後には異次元の映画のあり方を見いだす。そのプロセスが14時間近くかけて描かれていたのではと思う。なので、明らかに第五部に相応しいと思われた第4部も本作を線として捉えると、その位置で正しいこととなる。ただ、あまりにダサくて退屈な本作を賞賛する気にはならない。コウペンちゃんにでも会って「完成させてエライ!」と言われてくればと思う。

とはいっても「上映時間30日の映画を作って、2020年12月31日に上映し、終わったら燃やすよ」とイキっておきながら、C'est finiとだけ書いて謝罪もなしに終わらせた『Ambiancé』のAnders Weberg監督よりかはエライとは思う。

というわけで私の2021年はワースト候補から始まりました。