アラサーちゃん

幸せの答え合わせのアラサーちゃんのレビュー・感想・評価

幸せの答え合わせ(2019年製作の映画)
3.5
「不幸な人間が三人いた。いまは、それがひとりになっただけ」

美しい詩の朗読と、美しい入り江の風景。私好みの静かで繊細なイギリス映画らしく、とにかく美しい映画だった。
イギリス、シーフォードには「ホープ・ギャップ」と呼ばれる入り江がある。映画のテーマと重ね合わせ、原題はその地名にちなみ「Hope gap」である。

力強く愛を漲らせる妻、グレースと、静かに慎み深い愛を胸に秘める夫、エドワード。
ふたりの愛のエネルギーは、まったく種類の違うものだった。それでもふたりは29年間、連れ添った。まるで、自分の星とは違う惑星の上で暮らし続けるみたいに。

予告で抱いていた印象とまるで違う映画だった。というのも序盤、物語が動くまで描かれていた夫婦は分かりやすいほどに「静かに妻の言いなりになる夫」と「うまく説き伏せて夫を意のままに操る妻」。こういう図は得てしてどこにでも存在するな、と思いながら観ていた。
これはイギリスの中年夫婦だけれど、こんな夫婦はいまの日本にも珍しくない。というか、個人的に友人知人から夫の愚痴話を聞くに、あまりに馴染みがありすぎる。

どこかで「溝」を感じると、とことん話し合いたいと思う女。それがふたりの愛を強くすると信じているから。対して、話すことで衝突になることを避けたい男。だからこそ話し合いから逃げ、安易に謝り、事なきを得ようとする。しかし、女は真意も理解していないくせに謝られることが腑に落ちない。きちんとふたりで理解し合いたいと思うのだ。
客観的に鑑賞するぶんには、一方的に押されっぱなしのエドワードに同情してしまう。でも、グレースの感情もじゅうぶん理解できる。グレースは極端に表現すると俗に言う「メンヘラ」の類なのだけれど、女というものは否が応にも「メンヘラ」に通じてしまうので、「そこまで言わないししないけど、その気持ち、まあわかるわ~!」とスクリーンに向かってつい叫びたくなってしまうのだ。

さて、そんな男女の間に生まれる「溝」を29年間ほっといたらどうなるか?
とんでもなく恐ろしいものを見せつけられた気分だった。

歴史教師であるエドワードのエピソードのなかに、戦時中の兵士たちについて生徒たちに語る場面がある。

極寒のなか仲間が動けなくなってしまう。極限状態のなかにいる兵士は、その仲間の衣服をすべて脱がせ、見捨てて行ってしまうと言う。
また、怪我などで先に進めなくなった兵士がいると、仲間が荷車に乗せて運ばなければならない。そのぶんの負担が増える。荷車を引く兵士は、足場の悪い道を勢いよく走り抜けて、荷車から仲間を振るい落とす。それはあくまで事故になる。

エドワードがアンジェラと結ばれたのは、「不慮の事故」だと彼は言った。その瞬間から、同情されるべきかわいそうなエドワードは、さりげなくずるくて弱い人間として映し出される。

エドワードが出て行き、自暴自棄になるグレースも、見捨てずに不器用な愛を注いでくれる息子のジェレミーや愛犬の存在に、少しずつ心を取り戻し、やがては希望を見いだしていく。
そして、彼女は空想のように存在していたアンジェラ(まるで「バニー・レークは行方不明」のバニーや、「レベッカ」のような)とついに対峙する。不法侵入という点には目をつぶる他ないし、何もできないエドワードの残念な描かれ具合は言うまでもないが、そこで満を持して登場するアンジェラのまあ冴えないこと!
しかし、立ち直ったグレースが彼女を咎めると、アンジェラは怯みながらも答える。

「不幸な人間が三人いた。それが、いまはひとりになっただけ」

何も言わずに去ったグレースを、エドワードが追いかけて叫ぶ。友だちに戻れないだろうか、と。びっくりした。あまりに衝撃的なせりふだった。ビル・ナイになんてこと言わせるのよと正直私心ダダ漏れで憤慨した。
しかし、振り返ったグレースの表情は毅然としていた。一日中階段に座り、出て行った夫が、二度と開けることのない玄関にやってくるのを待っていた彼女とは比べ物にならないほど強く。そして、エドワードと暮らしていたころより見違えるほど美しく。

不幸な人間とは、言わずもがな、幸せな結婚生活と思い込んでいたグレースとエドワード、夫に出て行かれ息子に手を焼くアンジェラの三人のことだろう。
では、いま、まだ不幸の真っただ中にいるのはいったい誰なのか。グレースを見送るエドワードの苦しげな表情を眺めながら、そんなことをぼんやりと考えた。

たとえば、「捨てる」側と「捨てられる」側という対極が存在する。相対的に、「捨てられる」ほうというのはどうしても惨めでかわいそうで不幸だ、というレッテルを貼られてしまう。

しかし、それは永遠に続くわけではない。捨てられたほうも、その出来事はいつか過去のものとなる。その傷は風化され、そのぶんかさぶたができた皮膚は強くなる。「かつて、私はここにいた」。いつかその地点までたどり着くのだ。
しかし、捨てたほうの傷は癒えない。自分がしてしまったことの罪悪感に蝕まれ、それは一生まとわりつく。捨てられたほうが負う鋭い痛みを持った傷ではなく、身体のなかを這いまわる鈍痛がいつまでも消えることはない。

いま「不幸」なのは、いったい誰なのだろう。

この映画はとにかく最初から最後まで、グレースの強い熱情によって動いている。彼女の持つ盲目的な愛の情熱について、冒頭では「現代日本のメンヘラ女に酷似する」と書いたけれど、ふと思い出すのがたびたび私のインスタに登場してくるアガサ・クリスティの傑作ミステリー「春にして君を離れ」だったりする。

この作品は、良き妻、良き母、良き女性であろうとした主人公が生活圏から離れひとり過去や周囲の人々を懐古することで、これまで信じてやまなかった自身の倫理観や常識に恐怖をおぼえていくようすが静かにふつふつと描かれていく。

この主人公ジョーンとグレースが、どこか重なってしまうのだ。英国人女性の気質というか国民性なのだろうか。性格こそ違えど、本質が似ている。

ワイン片手に足を投げ出し得意げに熱弁振るう彼女の、隣と向かい側の席に座る夫と息子がなんとも言えない表情を浮かべ言葉に詰まっている姿に、まるで気づいていないようなところに。
そのとき、彼女はそれぞれに尋ねる。「ひとりでいて幸せなの?」「結婚して私たちは幸せよね?」夫と息子はそれぞれ答える。

「大丈夫だよ」

「幸せだよ」ではない。「大丈夫だよ」。このさりげなく過ぎていったやりとりに、恐らくこの映画のすべてが詰まっていたのだと思う。

この映画を最後まで見ても、結局、誰が幸せで誰が不幸なのかは示されない。それでも、それぞれが足かせになっていたものから抜け出し、希望を見いだすようなラストがもたらされている。一見不幸に思えても、映画のなかの彼らが幸せだと思うならばそれでいい。たとえば、アンジェラがグレースを最後に残った不幸者と決めつけたとして、グレース自身はそうではなかったように。

最後に言い忘れていたけど、この映画のなかで何よりも突き刺さったのは、息子のジェレミーという人間性だった。激しい愛を携える母と静かな愛を従えた父との間に揺れる息子。彼こそコップの淵ぎりぎりに張り詰めた、今にも零れそうな水のような心情だっただろう。
それでも父を責めることはないし、母を見捨てない。それぞれから受け継いだ愛があるから。だからこそ彼は、自分が犠牲になっているとわかっていながら、その関係を続けている。波打ち際のがけっぷちに、ぎりぎりの精神で立ち尽くしている。

入り江に打ち寄せる波は、激しいときもあれば、緩やかなときもある。透明に澄んでいたかと思えば、白いしぶきをあげるし、緑色に濁ることだってある。
彼ら家族だって、これまでいろんな波を乗り越えてきた。でもいま、これから、三人が迎える波はもう同じではない。それぞれ違った波を秘めて待っている。その波に溶け込んだ愛と希望こそ、彼らにとっての「ホープ・ギャップ」なのだ。