アラサーちゃん

アイダよ、何処へ?のアラサーちゃんのレビュー・感想・評価

アイダよ、何処へ?(2020年製作の映画)
4.0
圧倒的なリアリティ。繊細であり大胆で、儚くも凄まじい、ものすごい熱量の映画だった。

舞台は紛争下のボスニア。東部の街・スレブレニツァは国連施設がありながら、セルビア人勢力によって陥落。イスラム教徒である多くの市民は国連軍に助けを求め施設に殺到するが、国連本部からは軍もろとも見放され、ムラディッチ将軍率いるセルビア人勢力によって、国連施設内に逃げ延びた市民までもが悲劇に襲われる。

現代に生き、無条件に絶対的安心と信じ切っていた「国連」という存在の脆弱さ。それがほんのわずか四半世紀前、この地球上で実際に行われていたと思うと言葉を失ってしまう。

主人公は、国連施設で通訳として働くアイダ。夫とふたりの息子と暮らす、紛争がなければ明るく教師をしているはずの女性だった。
彼女は街を、市民を、三人の家族を守るため、国連施設内を駆け回る。何がなんでも。家族の為には恥も外聞もなく決してあきらめない。その姿、次第に変わりゆく表情に、女性、母としての誇り高き強さを感じる。その表情の変移には恐ろしいまでの狂気が宿っている。しかしそれが、死と隣り合わせの瞬間を生きながら守るべきものを持った人間の目力なのだと思わずにはいられない。

紛争中、激しい戦闘や爆破のシーンは全くない。それでも、夏のボスニア、炎天下で、国連施設のゲート外にさらされた市民たち、洗濯板で服を洗う女や寝ころび静かに遊ぶ少年がゆっくりと切り取られていく様には、見ていて胸が痛む。身にまとう布のわずかな染みや、額ににじむ汗の粒に、その瞬間のリアルが刻み込まれているような気さえする。
だからこそ、メインのキャストでない市民たちが、バスに乗り込むため行列をなす姿には目が離せなかった。クレジットには名前のあがらない彼らたちのくたびれた表情が丁寧に映し出されていく。そうしたドキュメンタリータッチが随所に配置されていて、さすがドキュメンタリーを多く手掛けてきた監督ならではの映像だなと思った。

監督と言えば、彼女やキャスト陣についての現状も公式サイトやパンフレットで確認してほしいと思う。監督やアイダ役、ムラディッチ将軍役の俳優たちは旧ユーゴスラビア生まれであり、自国で演劇を学んできた。ボスニアは、紛争は終わっても、未だに集団虐殺の史実には否定的で、戦犯たちが英雄扱いされているという。それゆえ、将軍を演じた俳優は現在、政治的圧力を受けているそうだ。

そんな現状のなかで生まれた本作。「アイダよ、何処へ?」という邦題だが、これは原題の「Quo davis,AIDA?」の直訳で相違ない。しかし、実は原題の「Quo davis」にはダブルミーニング的要素がある。この言葉は聖書のなかに登場する。
迫害を受け、ローマから逃げようとしたペトロの前に死んだはずの師・キリストが現れる。そこでペトロは問う。「Domine, quo vadis?」“主よ、何処へ行かれるのですか”それに対する師の言葉に、自らの行為を恥じたペトロはローマに戻り、処刑されるという一節だ。
監督の話では、スレブレニツァの女たちは、このような悲劇的な運命を辿りながら、復讐は望んでいないという。ただ、平和に、穏やかに、ボスニアに生きる様々な人種の人々が、手を取り合って生きる未来を欲している。加害者も、被害者も関係なく共存していく。
そこに象徴されるアイダが、紛争を終えたスレブレニツァの街に戻り、子どもたちの前で教鞭をとる姿に、聖書のその場面が見事に重なったのだそうだ。

この映画は、愛する大切な人々を失ったスレブレニツァの女たち、実際には生き延びたものの、ささやかで幸せな人生と生きる希望とを奪われた女たちへの鎮魂歌だ。恐ろしい史実を描き切ってエンディングを迎えるわけではない。紛争を終えたボスニアに生きるアイダが最後に数分描かれている。彼女は静かで抑揚のない世界に生きている。おぞましく過酷な数年など、まるでなかったかのように、淡々と。それでも彼女のなかには、彼女をはじめとしたスレブレニツァの女たちのなかには、死ぬまで巣食い続ける何かがある。

ラスト、様々な毛の色、目の色、肌の色をした子どもたちが同じステージの上で踊る。言葉ではなく、ボディランゲージで披露されるお遊戯会。未来を想像させる子どもたちと、それを見つめるアイダの瞳いっぱいに、希望と絶望が描かれているような気がした。
そして映画は、終わりを迎えた。