バランシーン

赤穂城断絶のバランシーンのレビュー・感想・評価

赤穂城断絶(1978年製作の映画)
3.2
本作の撮影の背景についてある程度知った上で見たので、どうしてこんな中途半端な出来に終わったのかはある程度納得ずくである。
しかし78年といえば、深作は既に一連の仁義なきシリーズで名声を得ていた時期。その深作をもってしても、超えられないしがらみが仕事を行う中ではあったのだということが興味深い。

中身に関しては、「堂々たる大石」「役者の本懐としての大石」を求める萬屋錦之介と「従来の忠臣蔵を踏襲しない」「大石ではなく一介の浪士たちを中心とした」群像劇を希求した深作の対立が混乱の根底にあることが如実に感じられる。
部分部分で、実録的な手法や殺陣のリアルさなど深作のなんとかしようという誠実さを感じることはできるが、萬屋錦之介の時代がかった台詞回しと〝仁義なき組〟の現代的なソレは噛み合っておらず、そもそも深作自身が伝統的な忠臣蔵のカタルシスを放棄している(冒頭5分でいきなり内匠頭刃傷である)点から、萬屋錦之介の意図したような堂々たる大石、にもなりようもなく、ただただ細切れのようにエピソードが消化されて討ち入りに至ってしまう。
例えば、忠臣蔵には仁義なきのヤクザ抗争とある意味通底するような構造もあるはずで(体面や見栄が重視され、非論理的な抗争に発展してしまうという点など)、そういう意味でも深作が最初に構想していたという萬屋錦之介=吉良、金子信雄=大石は是非見てみたかったと思える。
作品としては残念なものになってしまっているが、深作のように名を成した人間でも、妥協せざるを得ない仕事がある、ということがわかった点では個人的に深い共感である。
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