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真夏の夜のジャズ 4Kのdm10foreverのレビュー・感想・評価

真夏の夜のジャズ 4K(1959年製作の映画)
4.1
【オンガク】

昔、僕がまだ中学生の頃。
音楽の授業がとにかく苦手で、「吹奏楽はどれでしょう?」という問題で「スイソウガク?水槽?あ、なるほどね」と『水族館の前で演奏する鼓笛隊』の写真を選び、学年で一人だけ間違えるという恥かしい目にも遭いながら、それでもどうしても音楽の授業には心がなびかなかった。

そんな時、先生から「なんで音楽が苦手なんだ?」と質問され、「それは『なんでピーマンが嫌いなんだ?』と同じ質問です」って返したら笑われた。
割と真面目に返したつもりだったんだけど・・・。

でも、先生は笑いながらちょっと良いこと言っていた。
「音楽って、音を楽しむって書いて「音楽」だろ?だけど、学校の授業で教えているのは実は「音学」なんだ。芸術の世界って興味がない奴に教えるのってとんでもなく難しい作業だし、もしかしたら無駄な作業かもしれない。だってドレミだの記号だのを教えなくたって「音を聞いて楽しむ」ことは出来るだろ?俺はその「楽しむ」っていう気持ちをみんなに伝えたいんだ」

先生は教育大学→教員試験→教師という一般的なコースではなく、札響(札幌交響楽団)を引退後に中途みたいな形で学校の音楽教師となった、ちょっと変化球タイプの人だった。
だからこそ、音楽に対する考え方も「学問」ではなく「芸術」として捉えていたし、今になって思えば教え方もユニークだったのかもしれない。・・・気付くのが遅すぎるぜ、dmよ。

で、この映画を観て思ったこと。
それはとにかく「音を楽しんでいる」ということ。
それこそ僕はあまりJAZZにも造詣が深いわけではないんだけど、父が大のJAZZマニアで、家にはとんでもない数のレコード盤(CDじゃないよ)があって、中には、今手放せば1枚で数十万円以上の値が付くものもあったらしい。
小さい頃はそんな事も知らずに、雪山でソリの代わりにしてお尻の下に敷いて滑って遊んでた。
当然烈火のごとく怒られたのは言うまでもない・・。
そんなこんなで「サッチモ=ルイ・アームストロング」とか「チャック・ベリー」とか「マイルス・デイビス」とか「デューク・エリントン」とか「ナット・キング・コール」とかとか・・。
気がつけば自分の周りにはJAZZが日常的にあった(部屋は畳みの部屋だったけど)。

だからね、どんな場面にもJAZZが沁みている感じがするんです。
雨の日も、晴れの日も、怒っているときも、笑っているときも、なんだかソワソワしているときも、誰も観てないのにカッコつけてお洒落にコーヒー飲んでるときも。

それって「音を楽しんでいた」って事だったのかな・・・と。

そういう場面で僕はクラシックを選ばない。
何となく敷居の高さを感じてしまうというか、襟を正して聴かなければいけない様な気がして・・・。
それこそが僕が受けてきた「音学教育」の弊害なんだと思った。

とにかく、この作品に出て来るアーティストたちは、そりゃ超がつく一流アーティストばっかりなんだけど、みんな演奏中は本当に素敵な笑顔なんです。その場の演奏を「楽しんでいる」って言うのがビンビンに伝わってくる。

JAZZって基本的に指揮者がいないんですよね。まぁビッグバンドとかになれば話は別ですが・・。
で、とにかくその場の呼吸とかテンションとか会場の雰囲気とか、様々なファクターによって構成されるので、同じ曲を同じプレイヤーが演奏しても同じようになるとは限らないそうです。というかならないそうです。その時の「ライブ」で生れるものが全てだから。
だから、同じ曲のJAZZのレコードなんかでも「1954年のあの幻のセッション」なんて言われるものがとんでもない高値になったりするそうです。
(あの夜はキセキだった・・・)みたいな。

もともとジャズドラマーだったデイミアン・チャゼル監督の作品でジャズを扱った2作品「セッション」と「ラ・ラ・ランド」。
同じジャズを愛する主人公でもアプローチはかなり違いました。
でも、実は「自由を奏でる」という点ではどちらも共通していたように感じます。
「ラ・ラ・ランド」ではライアン・ゴズリング演じるセブが最後まで自分の夢を貫き、自分が本当にやりたい音楽を好きなだけ出来る小さなお店を手にします。それは誰かに雇われている状況では決して出来ない「自由」。
かたや「セッション」では鬼教官フレッチャーの体罰をも辞さないしごきの果てに、一線を越えた高みに到達し、フレッチャーの指示ではなく本人の自由意志(本能)でぶつかるという壮絶ラストでした。

アプローチも結末のテイストもまるで違う両者ですが、形に囚われるのではなくその場で生れるライブ感こそがJAZZの本質なんだという点では、僕なりにメッセージを受け取ったつもりでいました。
そして、奇しくもその「形」の権化として登場するのがどちらも「J.K.シモンズ」というオマケつき。

それはさておき。
今作品に感じた「自由」。
それは演者と観客の一体感にも表れていました。
何でもかんでも盛り上がるわけでは決してないし、演者が明らかに緩急の「緩」でいく時は、観客も「緩」なんですね、面白いくらいに。
(ホントに聴いてんのかな?)って言うくらいに自由なんです。
ある人はボ~っと空を見上げてたり、ある人はしかめっ面でアイスキャンディを頬張ってたり、ある人は下を向いて明らかに居眠りしてたり・・・。

・・でも、聴いてるんです。
これが彼らの鑑賞スタイルなんです。途中からそこに気がついた時の一体感は、単なるドキュメントとは思えないくらいに世界に入ってましたね。考えてみたら、僕もボ~っと観てたし(笑)。

これが本当の「ドキュメンタリー」だなって感じました。
台詞も、説明もほぼなし。当事の会場で流れたアナウンスやアーティストのMCくらいしか言葉はありません。
それ以外は本当に淡々と「あの一夜」を映像化したに過ぎない映画です。
だからこそ、ストレートに映像と音楽が飛び込んでくる。
だからこそ、ライブ感、グルーヴ感が生れる。
誤解を恐れずに言うのなら、この映画に関しては鑑賞中に眠るのもありだと思います。
この音楽を、環境を、ライブ感を「心地いい」と感じたなら、それも鑑賞スタイルだと思うから。

・・・僕は、寝るまではいかなかったけど、アーティスト毎にぐるぐるとテンションが変わった。
サッチモの笑顔をみてこっちまでニコニコしてしまったし、ウィットに富んだジョークを言えば「フフッ」って思わず声を出しちゃったし。
かと思えばチャックベリーがノリノリで演奏を始めれば体が自然とリズムを刻んでいたし、クライマックスでマヘリア・ジャクソンのゴスペルを聞いたら涙が出た。

あと、言い忘れた。
当時のファッションがとてもオシャレ。
そういう視点で見るのも面白いかも。

はぁ・・・素敵な夜。
真夏・・とはいかなかったけど、お洒落で熱い一夜でした。
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