きょんちゃみ

激怒のきょんちゃみのレビュー・感想・評価

激怒(2022年製作の映画)
4.4
 この映画は、非常に面白い映画だった。そしてこの映画は、ざっくりひとことで言うならば鏡を描いた映画だと思う。それは、この映画自体が、鏡のような映画だという意味のみにおいてそう言っているのではない。いくつかの鏡がこの映画では描かれているので、これから順番に分析してみたいと思う。

⑴.【深間刑事と桃山一派との間の鏡】
 そもそも、警察権力というのは、秩序の維持あるいは正義のためであれば、暴力の行使が正当化されると考えている人々のことである。そのことの是非はともかくこのことは間違いない。だからこそ彼らは武器を携帯しているのである。また、深間刑事は最初、この職業それ自体がもつ暴力性に自覚的であるどころか、開き直ってさえいたから、暴力を行使することになんの抵抗もない。冒頭で引きこもりをあれだけ殴れるのも深間が自分が暴力を肯定していることに自覚的だからである。そんな警察権力の一部を構成していた深間刑事は、劇中で自らの姿が戯画化され、誇張され、グロテスクに極端化されたものとしての桃山一派と対峙させられる。そのとき鏡に映った桃山一派は、まさしく自分がやってきたことを極端に徹底しただけの姿に過ぎないのだから、彼らを論理的な言葉で言いくるめるという方策は、もう深間には最初から構造的に残されていなかった。だから深間と桃山の対立は、暴力と暴力のぶつかり合いへと至らざるをえない。このように警察権力と桃山自警団との間に鏡を置いて考えれば、女署長を追い出したあとの警察権力と桃山自警団が非常に親和的な癒着を形成することに特に不思議はないことがわかる。畢竟、同じアナのムジナだからである。では、(「決定的な場面で二度も劇中に登場した青い鳥からもわかるように、あの青い鳥は薬剤で酩酊した深間の見ている夢の始まりと終わりを示すものなのであり、深間はアメリカからそもそも帰国などしておらず、ずっとベットの上で夢を見ているのだ」という恐ろしい解釈も可能ではあるが、)なぜ深間はアメリカから帰国することができたのだろうか。劇中でも明言されているとおり、それは富士見町の町内会長の桃山が、深間刑事のことが大好きであり、深間刑事を日本に連れ戻すようにと警察権力にかけあってくれたからであった。「ありがとう!ありがとう!ありがとう!」と劇中で何度も桃山一派の側から連呼されるセリフも、この「先導者とその追随者たちとの間に置かれた鏡」の存在を示唆しており、この鏡によって、先導者がまさにその追随者たちのグロテスクな姿を見て覚える戦慄が可能になっている。

⑵.【引きこもり男と深間との間の鏡】
 冒頭に出てきた引きこもり男は最初、狂気の母親に見守られながら立てこもっている。そしてラストの深間刑事は母親の幻影に見守られながら立てこもっている。「世界が狂っているのか、それとも自分が狂っているのかが、もはや分からなくなったディストピア状況下における人間」として、冒頭の引きこもり男とラストの深間刑事とは互いに鏡像関係にあり、映画の冒頭とラストは完全に呼応していると言っていい。もしも全体的かつ全面的に狂ってしまった世界(=ディストピア)にまともな「外部」が見つからなくなってしまったとしたら、人はむしろ、まともな「内部」というものを作り出すことで世界の全体(性)と闘うことになるだろう。外のない世界で、外部というのは内部のさらに内部のことなのだ。だから、この意味での引きこもりとはなんの創造もしなくなってしまった腑抜けなのではなく、むしろ孤独を新たに創造しようと奮闘している実践家なのであると思う。世界全体を相手どって、世界全体から何かしら自分の利益となるものを奪い取ってこようとする戦いを挑むということについて、私はそれをかっこいいとは思わないし、それに対する関心さえないのだが、それとは全く逆に、過剰要求的な世界に対してせめてもの不干渉を要求する闘いを挑むという姿は真っ当なものであると思う。

 少しだけ話は逸れるが、孤独な創造者による垂直方向への深掘りによる縦穴が、別の孤独な創造者による同じ垂直方向への別の深掘りによる縦穴へと非意図的(アクシデンタル)にどんどん繋がっていってしまい、それが地下において、地上の水平的な連帯よりもずっと濃厚な連帯と出会いを広げていくという構造(この構造は地球が幸運にも球体であるということを考えれば物理的にも分かりやすくイメージできると思うのだが)の中で生きることを楽しめる人たちにとって、権力の介入は邪魔でしかないと思う。

 最後のシーンで「深間さん……誰と話してるんですか?」 と聞かれた深間が「……お前は誰と話してるんだよ?」 と問い返すシーンがある。あれは深間だけが幻影を見ているのか、それとも深間を見ている人さえも幻影を見ているのかを分からなくさせるようなセリフだと思った。当該セリフは、深間が見ている幻影の中の登場人物が深間に話しかけてきたので、幻影であることに薄々気付いている深間が、その登場人物に対していま見えているこの世界全体が幻なのだ、と伝えているセリフであるようにも見えた。深間に見えている母が幻影であるのと同様に、観客の目の前に広がった富士見町も幻影なのだが、しかしその幻影が幻影でよかったと思える仕掛け、つまり幻影なのだと気づけるための仕掛けをこのように幾つか映画内に残してあること自体が、監督がまだこの社会にかすかな希望を持っていることの現れにも見える。つまり、このディストピアはまだ恐ろしい悪夢であって恐ろしい現実ではないと言える根拠がいくつか映画内に見つかるということは重要である。


⑶.【現実と映画の間の鏡】
 「演戯の目的は、最初からそうだったし、今でもその通りだが、言ってみれば、自然に向って鏡を立て掛けることだthe purpose of playing, whose end, both at the first and now, was and is to hold as 'twere the mirror up to nature」とハムレットは語る。実際そうかもしれないと思わせる力がこの映画『激怒』にはあると思う。蛍光色のベストをきて街を歩く連中や、ホームレスを暴力的に排除しようとする連中や、「誰か見てるぞ!」と脅す街角のポスターや、異常に潔癖な連中に毎日ビビりながら生きざるを得ない現代、この映画のエンドロール後に映画館に鳴り響いていた「犯罪ゼロの街、富士見町」というシュプレヒコールは、「この映画を見ているあなたたちは、富士見町を作ろうとしているんだぞ、いやもう映画館の外に出ればそこは、富士見町かもしれないんだぞ」と懸命に訴えながら、我々に大きな鏡を立て掛けていたように思えてならない。
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