きょんちゃみ

ヘザース ベロニカの熱い日のきょんちゃみのレビュー・感想・評価

5.0
Veronica: “Why can’t we talk to other kinds of people?”
Heather Chandler: “Fuck me gently with a chainsaw. Do I look like Mother Theresa?”
ベロニカ「なぜ、他の種類の人たちとはおしゃべりできないの?」
ヘザー「チェーンソーで優しくファックしてよ(=馬鹿言ってんじゃないわよ。)。私がマザー・テレサに見える?」


⑴【意味が織り込まれた作品】

この映画は、有名とは言えない映画なのだが、非常によく作り込まれた素晴らしい映画である。この映画は絶対に見たほうがいい。

マジで、この映画は、本当に、隠れた名作であり、評価されてなさ過ぎであり、本物の傑作である。(あと、若い頃のウィノナ・ライダーは死ぬほどかわいいし、クリスチャン・スレーターもお洒落である。)

適当に見ていると、平凡な映画との区別がつかないのだが、実はこれはものすごい傑作である。(日本語版の字幕翻訳が不正確なせいで、わかりにくくなってしまっている箇所があるので注意。)

まず、劇中で登場する「JD」という人物は、主人公のベロニカの攻撃性(あるいはタナトス)を具現した幻像ではないか、と考えたほうが整合性がある。

⑴実際、なぜ便所洗剤を入れたカップと、オレンジミルクを入れたカップとをヘザーのベットに両方とも持っていくのかとか、⑵なぜJDの方がカップを渡してしまうことになっているのかとか、⑶なぜ深夜に家の窓からJDが突如入ってくるのかとか、⑷なぜ2人はいつも一緒に行動するのかとか、不自然な点が多く劇中にあるわけだが、その2人が実は同一人物であると考えると理解できる。

JDと主人公ベロニカは実は同一人物の二つの側面ではないだろうか。『ファイト・クラブ』(1999)という名作におけるタイラー・ダーデンというキャラが実は存在しないということを想い出せば、このような設定であっても、何も不思議はないということが分かるだろう。

さらに、多くの人が気付いていないことかもしれないが、主人公ベロニカの身の回りで起こっていることの多くが、実は、実際には起きていないことである可能性が高い。かなり寓意的なシーンが多数映像で表現されているからである。

①例えば、冒頭で、ベロニカは首まで地中に埋まった状態で登場するのだが、「どうしてそうなったのか」についての説明が一切ない。おそらく、あれは「ベロニカがヘザーズたちとの人間関係の中で、身動きが取れなくなっていること」を映像的に表現しているのだろう。

②あと、ヘザーは本当に3人もいるのだろうか。実は最後に残ったひとりしかいないのだが、ヘザーが3人いるように感じるほど悩んでいるということではないだろうか。(もし最初から3人もいなかったとすれば、彼女たちに対する殺害も実際に起きたことではなく象徴的な殺人であるということになる。)

つまり、この話自体、ひとつの主人公が見ている心的幻想として見ると極めて興味深い。他にも、

③ある人が自殺したら周囲に一気に聖化されてしまうことや、

④その自殺を模倣・反復することで自分も聖人になろうとする者(=ミス・ダンプ)が現れること、

⑤ゲイを馬鹿にしている二人組がゲイとして心中させられる描写(しかもその二人組をJDとベロニカは協力して撃ち殺す)などがあり、

⑥ JDは自分の父のことを「息子」と呼び、父は息子であるJDのことを「父」と呼んでいる。

これら①〜⑥のことからも、JDや周囲の人物は実在しない可能性が高い。それゆえ、精神分析の立場からの批評と相性がいい作品である。


⑵【JDについて】

【社会がおかしいから、学校がこうなっているのではない。学校自体が社会なんだ。】というJDの最期のセリフは極めて深い。なぜなら、JDは、「それゆえ社会への反抗として、社会そのものである学校を破壊しよう」という推論へと舵を切ってしまうのだが、その推論はともかく、このセリフ自体はものすごく鋭いことを言っているからだ。

よく、学校が荒れており、学生たちの心が荒んでいるという現代の問題を、社会が学校に及ぼす悪影響のせいにする人がいるが、その人は無自覚に、学校が社会ではない神聖な領域だということを前提している。

実は、社会が学校という聖域を侵しているのではなく、学校と社会というのは同じものなのであって、聖域などというものはないのだ。

聖域が欲しい人は、JDのように社会そのものにテロリズム的な挑戦をするか、家や空想に閉じこもって社会ではないような私秘性のコクーンを確保するかしかない。コロンバイン高校銃乱射事件(1999)で、カフェテリアの爆破が計画されていたことが思い出される。


⑶【抑圧と成長】
ラストでベロニカが、JDの中指だけを拳銃で吹き飛ばすのは、「ベロニカがみずからの中に眠る男根性(=攻撃性)を殺して、空想から社会へと戻っていく過程である」と考えることができる。

フロイト的にいうと、自分の男根を銃で吹き飛ばすことによって、「抑圧」が働いたことになる。最後にミス・ダンプと心を通わせるベロニカは明らかに自分の欲望との葛藤を経て成長していることがわかる。



⑷【ちなみに】

ちなみに、登場人物の名前「JD」の由来は、①J・D・サリンジャー(1919-2010)であって、『ライ麦畑で捕まえて』を意識しているという説や、②ジェームズ・ディーン(1931-1955)の頭文字であるという説や、③Juvenile Delinquency(青少年犯罪)の頭文字であるという説がある。

JDの最期は、ゴダールの『気狂いピエロ』(1965)のオマージュである。自分に爆弾を付けて吹っ飛んで消えるというのは、「死への欲動」であるタナトスそのものだ。

ベロニカ・ソーヤーという名前は、マーク・トウェイン(1835-1910)の『トム・ソーヤーの冒険』(1876)からの引用だし、ベティ・フィンはマーク・トウェインの『ハックルベリーフィンの冒険』(1885)である。あと、Archie Comicsにも同じ名前(ベロニカとベティ)が出てくる。

(JDがラストで学校を爆破して自殺に見せかけるために、「バンドを学校に呼ぶため」という口実で学生たちのサインを集めていたということが分かるのだが、あの伏線回収も巧妙である。)

最初に死んだヘザーのロッカーの中で、I shop therefore I am(我、ショッピングする。ゆえに我あり。)というステッカーを見つけるシーンがあり、ベロニカが悲しそうな顔をするシーンもある。

「80年代にとってのウッドストックを起こしてやろうぜ」というセリフがJDの口から発せられるわけだが、この映画の感性は、1950年代、1980年代、そして2010年代の感性に繋がっている。

実際ケ・セラ・セラは1957年の曲であり、この映画の公開は1989年である。バブル的感性は30年周期で反復する。

思春期の不安な心が発するさまざまな質問に対して、劇中で一曲だけ挿入される音楽はただ、「ケ・セラ・セラ」(なるようになるさ)とだけ応答する。そういうきわめてお洒落な映画なのだ。絶対にオススメである。
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