keith中村

レミニセンスのkeith中村のレビュー・感想・評価

レミニセンス(2021年製作の映画)
5.0
 まず、もともと勝手に予想していた映画とは全然違っていて、そこはがっかりというしかなかった。
 予告篇からは真っ先に「インセプション」を連想しましたよ。同じ印象のレビュアーさん、多くないですか?
 だって、製作がノーランの弟、監督脚本がその妻(すなわちノーランの義理の妹)という布陣でしょ?
 だから、ノーランの映画のような、センス・オブ・ワンダーに満ちたSF大作だと勝手に想像しちゃったって仕方がないじゃありませんか。
 
 「インセプション」の「夢」に対して、こっちは「記憶」を扱っている。
 そこでまた先走って「信用できない語り手」ものを期待しちゃうのは、こっちが悪いわけじゃない。そりゃ期待するでしょ?
 ただ、後で調べたら、この脚本は例の「ブラックリスト」入りしてたらしいけど、正直そこまでのレベルとは思いませんでした。
 つまり、「事実」ではなく「記憶」から構築される物語なのに、「信用できない語り手」ものの面白さである「揺らぎ」が全然ない。ただの「記憶」なのに、それらが100パーセント事実と一致するものとして描写されてしまう。
 そうすると、そこにはセンス・オブ・ワンダーはなくて、単なる「時系列入れ替え映画」になっちゃう。
 
 とはいえ、それは、この手のものが量産されちゃって、そろそろその語り口に、観てるこっちも馴れちゃったのもあるのかな。
 それこそ、「パルプ・フィクション」が出てきたときは、しかもあれはあまり本質とは関係ないところでちょこっとやってるだけなのに、大興奮できたんですけどね。
 
 最近だと、「鳩の撃退法」で同じことを感じたね。
 あっちは「記憶」の代わりが「小説」になってました。
 つまり、「過去にあった事実」と、「その事実を元に書かれた小説」を対比させるんですね。
 そうすると、やっぱ観てる方も、「信用できない語り手」ものを期待するじゃないですか。あの映画でも「小説(の映像化)では、こう語られてるけど、現実はそうじゃなかったんでしょ?」って「揺らぎ」を期待したんです。
 でもさ。「鳩の撃退法」ではそれがまったくなかった。
 劇中の「小説パート」が単なる「回想シーン」としか機能しない。じゃあ、フツーに回想シーンでいいじゃん。
 しかもさ、劇中で意味ありげに「全部ほんとにあったこと?」なんて問いかけるんで、相当期待してたのに、「あ~、結局そうでしたか! 全部そのまんまだったのね!」と実にがっかりしてしまったのです。
 
 「レミニセンス」もまったく同じで、がっかりだったんですよ。
 うん。
 物語を支配するテーマ曲がロジャース&ハートの「Where or When」ってのも、期待感を挙げた大きな要因だったのに、違ったね~。
 この曲自体が何度も繰り返されるし、音楽担当のラミン・ジャワジさんの劇伴にも、この平坦なメロディな曲でいちばん印象に残る、タイトル部分のメロディが織り込まれてるのに。
 
 今日はあらかじめ断ってから脱線しますね。
 「Where or When」に喰いついて脱線するのは、何しろ、これは私がいちばん得意とする「ジュディ物件」だから。
 「Where or When」はスタンダード・ナンバーですが、映画で歌われるのはジュディ・ガーランドとミッキー・ルーニーの「青春一座」が初めてかな。
 もっとも、「青春一座」ではジュディ&ミッキーじゃなく、脇役のレイ・ヘザートンとミッツィ・グリーンのデュエット。ジュディも途中で2小節ばかり唄ってるけど。
 「ルミニセンス」ではちゃんと歌詞が字幕になってましたけど、この歌詞って著作権に触れない程度にぼかして書くと、恋人たちが「前にもこんなことがあったよね」って想い出をたくさん語り合ったうえで、「でも、それがいつ、どこでだったか憶えてないけど」ってなるんです。
 だから、やはり「信用できない語り手」ものをさ、「事実と記憶の違い」をさ、期待しちゃったんです。
 
 脱線してる上に、余談になっちゃうけど、劇中ではヒュー様は「Where or When」を「祖父が好きだった曲」って言ってましたね。
 私、ヒュー様と同い歳ですわ。ヒュー様も昭和43年生まれ(←オーストラリア人に元号を適用するなって!)。
 だのに、こちとら、爺様じゃなく私自身がこの曲を昔っから大好きだわ! おれ、年寄りチームだな、ちきしょー!
 私は過去に、昭和43年生まれのアメリカ人にも(←だから、そこで元号使うなって!)、「ナカムラって、うちの祖父ちゃんみたいな英語話すな~」って呆れられたことがあるわさ! そりゃ、無差別に映画観まくってたら、いろんな時代の言い回しをごっちゃに学んじゃうわな!
 
 ええいっ。一回座ろう。
 いっかい戻そう。
 なんだっけ。
 そう。
 だから、本作は私が期待してた「信用できない語り手」ものでは全然ありませんでした。
 
 ただ、本作は全然期待していなかった角度で非常に素晴らしいと思った。
 というのも本作は、SF的世界観やSF的ガジェットが出てくる割りには、SF的センス・オブ・ワンダーはまったくない、という不思議な作品なんです。
 でもって、そのSF的世界観やSF的ガジェットを全部取っ払ったら、今度はかなり評価できる「ノワールの教科書」みたいな一面が表出する作品なんです。
 そこが良かった。一切予想してなかったので、良かった。
 本作はフィルム・ノワールの典型要素が全部入ってる。
 というか、どう考えても意図的に「ノワール枠」から逸脱する気がない作りになっている。
 すなわち、
・暗い画作り
・探偵役のナレーション多用
・謎のファム・ファタール
・彼女によって地獄巡りする羽目になる主人公
・意外な真犯人
 みたいな、ノワール要素が全部入ってる。
 
 それこそ、ワーナーの「三つ数えろ」や「マルタの鷹」あたりの古典から、ヌーベルバーグのフレンチ・ノワールたち、あと「チャイナタウン」でもいいし、もっと最近なら「アンダー・ザ・シルバーレイク」とか「鵞鳥湖の夜」でもいいけど、映画史に連綿と続くノワールの王道パターンの一作。
 そこに非常に好感が持てました。
 うん。
 最近は「ノワール風味」こそ当たり前にいっぱい作られてるけど、「純粋ノワール」ってあんまりなかったもんね。
(本作はキャグニイやボガードの老舗、ワーナー映画でしたよね!)
(あっ、ワーナー、結構最近冒頭のプロダクション・ロゴが久しぶりに変わったよね!)
 
 ただ、一つだけ文句を言わせてもらうと、ノワールって、途中で観てるこっちもストーリーを追いきれなくなって、意味不明なシーンがあったり、激烈に睡魔に襲われたりして、後で人に「どんな映画だった?」って訊かれても、あらすじベースでは全然説明できなかったりするもんじゃないですか? で、しかし・しかも不思議とそこがノワールの魅力じゃないですか?
 本作はその要素が全くないのです。
 今日もまた、帰ってきて焼酎を喇叭呑みしながら酔っぱらって書き散らかしてるんだけど、全部記憶してるし、全部説明できる。
 せっかく「"レミニセンス"をリコールできる装置」というノワールな「不確定要素」aka「信用できない語り手」を描けるSF要素があったのに、本作では活かしきれてなかったですよねえ。
 ヒュー様とレベッカさんの共演は、これが2作目ですかね。
 前のP・T・バーナムさんを描く「グレイテスト~」のほうが、史実と結構違う「信用できない映画」でしたね~。
 
 まあ、「SF×ノワール」では「ブレラン」みたいな、凡百の映画作家が逆立ちしたって太刀打ちできない傑作もあるんで、ノーランの義妹であるご新規さんにはハードルが高いのかもしれません(つっても、この人、ユル・ブリンナーじゃない方のドラマ版「ウェストワールド」撮ったんだよね。観てないけど、絶対才能の人だよね)。
 もっとも、「ブレラン」における、「探偵役のナレーション多用」も、後のバージョンで解釈が違うという、映画自体が『信用できない語り手』であるという事態もスタジオとリドリー・スコットとのいざこざから生じたものですが。
 それらをそぎ落としたリドリー・スコットが真に意図したバージョンでは、そこまでノワールっぽくはないもんね。
 
 ただね。
 ええっと。
 今回、ちょっと褒めつつも、総体的に貶し気味なこのレビューですが、点数がかなり高いんです。
 その理由は二つあります。
 
 ひとつは、「とは言っても、ノーラン一派。やっぱ共通項が多くって、いいじゃん! 一作単体じゃ理解できないけれど、コネクトさせたら見えてくることがあるじゃん!」って観点。
 去年、ノーランには「TENET」がありました。あれと本作との明確な共通点は、どっちも「オルフェウス」を下敷きとしてるところ。
 「TENET」は何しろジャン・コクトー監督版「オルフェ」の最新アップデートでした。ストーリーも微妙にそうだったけれど、もっと全面的に映画のテクノロジーと表現技法として。
 だってコクトーの「オルフェ」は、CGなんかなかった時代に「逆回し」でもって視覚的面白さを多用してるんだよ!
 あと、「TENET」で描かれた「時間の順行と逆行」の同時進行を、古典的な「スクリーン・プロセス」だけで実現してるんだよ!
 プロパーな映画監督ではない、っていうか詩人・小説家として地位があったコクトー(だって、彼が映画を何本も撮ってるって知らない人も少なくないでしょ?)が、映画作家たちが全然思いつかなかった「映画表現」を軽々と発明してるんだよ!
(また余談になるけど、「スクリーン・プロセス」と「その前にいる人物」のすごいコラボでは、アステアの「イースター・パレード」の"Steppin' Out With My Baby"がありましたね。あれは、フレッドじゃなくジーンの発明らしいけど)
 
 でもって、本作はノーランじゃないけど、彼の義理の妹さんの作品。
 こっちは本来悲劇であった「物語そのもの」としての「オルフェウス」をアップデートしてました。
 それは、劇中のヒュー様とレベッカさんの「ストーリー」に当然オーバーラップするんだけれど、「ハッピーエンディングにならない物語なら、悲劇になる前に話を終えればいいじゃん」っていうところ。
(ルイス・キャロル的には「お話の初めから始めて、終わりのところで終わればいいんじゃない!?」って恣意的な例の感覚ね)
  
 この「史実を曲げてまでハッピーエンディング」にするっていう、「物語の持つ『強さ』、もしくは『救済』」って、最近なら、タラちゃんのヒトラーものとシャロン・テートもの2作にも共通するテーマですよね。
 
 んで、やっぱラストが素晴らしいんです。
 ほとんどすべての歌どもや詩どもや小説どもや映画どもが主張する「過去は非常の場合だけだ。そして未来は、いずれにしろ過去に優る」(←これ、福島正実大先生の「夏への扉」の名訳フレーズね!)には、本作は着地しないんです。
 本作は「過去も未来も等価に素晴らしいんじゃないの?」っていう両論併記に帰着するんです。
 そこが「TENET」の、「過去と未来は等価である」っていう提示にも共通してるのも、こいつらノーラン一派の企てにまんまとハマっちゃったところなんですが、おれ、やっぱ死ぬときはこういう死に方したいもんね。
 ちょっとだけジュディの話を上に書いたんで、ジュディの娘のライザ的には「私は死ぬときにはエルシーみたいに死にたいもんね」っていうボブ・フォッシーの映画にも通じるんだけれど。

 私は、もうあと20~30年後には確実に訪れる自分の死に際して、最後に見たい映像は、「踊るニュウ・ヨーク」でエレノア・パウエルとフレッド・アステアがタップを踏む「Begin the Beguine」だもんね。
 だから、本作の最後に描かれるヒュー様の姿に猛烈に感動して、「過去を振り返るだけでも全然いいじゃん!」ってところに涙ぐみました。
 現実社会を、大人になった分、それなりにうまくやり過ごして受け流してるけど、「自分が真に求める物語は、現実にはなくて、映画や小説(という過去の産物)の中に(こそある|の中にしかない)」っていう私たちのような狂信的な映画ファンとしてはねっ!
 
(上に「高得点」と書きながら、実は「4点くらいかな」と思ってレビュー綴ってたら、自分でも思ってみなかった「腑に落ちさ」を発見できたんで、やっぱ満点を献上しときますね!)