keith中村

PASSING -白い黒人-のkeith中村のレビュー・感想・評価

PASSING -白い黒人-(2021年製作の映画)
5.0
 恥ずかしながら、"passing"という概念を知りませんでした。
 白人との混血を繰り返して肌の色が白くなった黒人の子孫が、出自を隠し白人のふりをして白人社会に溶け込むこと。
 
 むろん人種隔離政策・黒人差別から逃れるために行われる行為ですが、肌の色が薄い人に特権的な行為です。
 逆に、肌の色が薄いからと言って全員がpassingしたわけではない。
 本作では、その両者が比較して描かれる。
 
 でもその前にまず、「なぜアメリカの黒人は、人によって、肌の色に濃淡があるのか」を考えなきゃいけない。
 アフリカにはほとんどいないでしょ?
 それに、アメリカでは1691年から異人種間の結婚が法律で禁じられていた。混血の子供できないですよ。
 20世紀に入って、州によっては認められるようになったけれど、そうじゃない州も多く残った。有名なのは、バージニア州。「ラビング 愛という名前のふたり」で描かれたラビングさん夫婦の裁判ですよね。
 これ、法律が違憲と判決されたのが、1967年。私が生まれる前の年です。
 あれ? こないだも似たフレーズ書いたっけ。そうそう、イギリスで同性愛が合法化したのも同じ年でした。
 どっちもとんでもないよね。
 
 では、法律で結婚が禁じられていたのに、白人との混血がいたのはなぜ?
 ラビングさんたちのように、文字通り愛し合っていたから?
 余談ですが、このご夫婦の姓がLovingさんって、とても象徴的で、すごいことですよね。歴史にはそういう偶然があって、電話を発明したのが(諸説ありますが)、電話に欠かせない部品と同じ「ベル」さんだし、光と影の芸術である、我々が大好きな「映画」を発明したのが(諸説ありますが)、「光」を意味する「リュミエール」兄弟ですから。
 
 いかん。
 重要なところで、逸らしてしまった。
 戻します。
 白人との混血で肌の色に濃淡ができたのは、愛じゃないですよ。レイプに決まってるじゃないですか。
 奴隷制の時代はもちろん、その後だって。
 白人男性による黒人女性の蹂躙の歴史の結果なんですよ。
(いや、最近でこそ恋愛の結果としての混血はありますよ。でも本作の舞台は1920年代だからね!)

 ともかく、そんなわけで、肌が極めて白い黒人がいる。
 最初に特権と書きましたが、そりゃそうでしょ? 差別されない側に(いや、「差別する側」だな)に行けるんだもの。
 その証拠に劇中の会話にもあったけど、逆のpassingをおこなう白人はいないんだから。
 でもって、とにかく、passingとは、アイデンティティを棄てる行為です。
 
 本作は黒人差別を描いたものなんで、敷衍したり演繹したり一般化したりしちゃいけなんだけれど、自分の想像できる例にいったん置き換えないと理解できないから、あえてやりますが、たとえば日本なら部落差別や在日朝鮮人差別を考えれば、想像できる。
 あるいは、もっと小さな喩えで、「高校デビュー」「大学デビュー」でもいい。
 ん~。「○○デビュー」は、学校や大学にいる間だけ自分を偽ればいいから、アイデンティティは維持できるか。いや、「趣味で集めた○○をすべて捨ててでもデビュー」の場合は、近い例として想像できますよね。
 まあ、そうやって、アイデンティティを棄てるという行為をいったんは想像して理解しましょう。
 
 本作では、主役の二人、テッサ・トンプソン演じる「passingできるほど肌が白かったのにしていないアイリーン」と、ルース・ネッガ演じる「passingしてしまったクレア」両方の苦悩が描かれる。
 ただし、本作はアイリーンの一人称映画なんで、うかうかしてるとクレアの苦悩は見えにくい。
 アイデンティティなんてそんな簡単に捨てられるもんじゃない。だから、クレアは純粋にアイデンティティを求めてアイリーンのところへ、ハーレムへ足繁くやってくるようになる。
 
 ただね。アイリーンの視点では、それは非常に疎ましいことなんですね。
 だってpassingというのは特権的行為(とはいえ、同時にそれは先祖や母親がレイプされたという負の遺産なんだけれど)で、アイリーンにしてみりゃ、自分だって「公共の場所でなるべく顔や肌を隠して白人社会にブレンドインする」というその権利に近いものを恐る恐る行使してるんだけれど、それは恒久的なものじゃない。
 ところがクレアは、「白人と結婚して子供までいる」という全面的なpassingをした人。アイリーンから見ると、クレアはいったん越境した癖に軽々と「こちらの世界」にも戻ってくる。「境界」のあっちでもこっちでも自由な、もっとも特権的な人間に見えてしまう。
 
 本作は第一幕のセッティングが終わった時点で、終わり方はひとつしかないことがわかります。
 もちろん、クレアがpassingしたことが旦那さんに知れることと、それによって齎されるクレアの死ですよね。
 ただ、さっきから書いてるように、本作はアイリーンの一人称映画なんで、それがアイリーンの知らないところで起こっても効果的じゃない。
(すみません。今、物語に寄り添うことからいったん離れて、作劇の観点で客観的に書いてる文脈なんで、「効果的」なんて突き放して書いてますが、どうかお許しくださいね)
 そこが本作は見事です。
 そうだよね。旦那が乗り込んでくるパターンが使えますね。
 ここはほとんど本作の舞台と同時代に書かれた原作小説がそうなんだろうけれど、巧いですね。
(あ。時代で言えば、舞台は禁酒法時代ですよね。そこがわからないと微妙に意味が不明なシーンがいくつかあります)
 
 さらに見事なのは、クレアの死が、旦那さんによる故殺なのか、アイリーンの未必の故意なのか、クレアの自死なのか、単なる不幸な事故なのか、まったくわからないこと。何度も巻き戻して(←死語)見たんだけれど、全然わからない。アイリーンの行為は、庇護にも見えるように撮ってあるしね。
 「最後の決闘裁判」のレビューで、私は羅生門型映画には「真相が藪の中もの」と、「はっきり真相を語るもの」があると書きましたが、本作は典型的な前者。だから登場人物だけじゃなく、我々観客まで巻き込んで、クレアの死が脳裡に焼き付けられてしまう。
 
 本作はこれが監督第一作となる女優のレベッカ・ホールさんの作品。
 最近、女優さんの監督業進出がすごい勢いだけれど、レベッカさんも素晴らしいですね。
 白黒スタンダードってチョイスもいいけど、真っ白な画面から始まって、真っ白になって終わる。途中もいわゆるフェード・アウトなんだけど、逆に白味になるところがありましたよね。
 
 ネトフリのモノクロ傑作といえば、「ローマ」や「マンク」がありますが、ここに、さらにもう一つの傑作ができたことに対して賛辞を贈ります。