Kuuta

ボーはおそれているのKuutaのレビュー・感想・評価

ボーはおそれている(2023年製作の映画)
3.7
鍵を失いパニックになる短編Beauを引き延ばしたような作品だった。ミッドサマーで「同じアイデアを繰り返しすぎ」と感じたが、過去の短編が切り刻まれ、そのイメージが悪夢のように現れる今作で、これが彼のスタイルなんだと少し納得した。アリアスターに興味がないと退屈かもしれない。

トラウマを抱えた人が、箱庭に取り込まれ、自意識が消滅する過程を描く。箱庭作りは映画作りだ、というメタ視点を重ねる。予算が増えたおかげか、従来の手法をより直接的に映像に出来ていた。

過去2作と異なるのは、コミュニティではなく、母親の愛情が主人公を縛っている点。抽象度と逃げ場の無さが強化されている。とはいえ、主人公の住む箱庭、今作で言えば母親の世界観に良し悪しの価値判断を挟まず、単なる舞台装置として突き放す監督の姿勢は変わっていない。ボーにも母親にも「共感」しない、作り物を眺める目線は最後まで貫かれている。家族の共依存や倒錯した性愛関係(あの年齢の息子と一緒に寝る母親…)は、デビュー作The Strange Thing About the Johnsonsを連想する。息子の罪の作品化、息子を糾弾する母といったラストの展開も同じだった。

・ホアキンの自由な演技を尊重するため、今回は役者やカメラの動きを作り込まないことにしたそうだ。映像的な息苦しさ=全てが美しく統御された心地良さは薄れている。屋根裏であれを見た時のボーが驚く顔のアップなど、むしろ今までよりも説明的になっている。

・「戦死」した息子が英雄だと信じる外科医の夫婦は典型的なアメリカ郊外の暮らしを送る。恐らく息子は発狂した男に殺されており、彼らは事実を捻じ曲げ、自分たちの世界に閉じ籠もっている。行き過ぎたコマーシャリズムや薬物中毒など、監督にしては珍しく、アメリカ風刺の入った作品になっている。

このパートはLAの日常に潜む死の影を描いたBasicallyや、ホームレスが人生の不条理を独白するC'est La Vieに通じている。最初のパートはBeauの拡張版(荒れた街の作り込みは今作最大の見どころ)、森のパートがミッドサマーのプロトタイプ、最終パートがヘレディタリーと見れば、新鮮味のある映像って結局オオカミの家のアニメと、オチくらいでは…?とも思った。

・今作は精神を病んだボーの主観しかない上、災難の原因となるトラウマは最初から最後まで揺らがない。そのため、舞台が移動しているのに、同じネタを何度も見せられている感覚に陥る。第一幕の勢いが郊外パートで落ちるのはそのためだ。
ヘレディタリーとミッドサマーは主人公の主観と、客観的なコミュニティが統合され、祭りが完成するタイプの映画だったが、今作は主人公の主観に徹している。そこが物足りなさでもある。

・Beauの次作Munchausenを観ておくと、話は理解しやすい。

虐待を事故に偽装し、周囲の関心を惹こうとする精神病を代理ミュンヒハウゼン症候群と呼ぶ。 Munchausenでは、母親が息子を愛するあまり、親離れしようとする息子を認められず、死なせてしまう。他人を傷つけて支配する。愛しながら自己愛に浸る。人を産んで生かし、人を殺す水の二面性に、今作の母親は重ねられている。

(ボーの初登場から、彼は扉の内側におり、扉を開けてもらわないと存在が画面に映らない。狭い画角の中で、半ば強制的に水槽に向き合わされている。母の死を知る場面では、彼を捕まえるように水が流れてくる)

今作はMunchausenの泥沼をBeau視点で描き直している。ボーは走り出すと眠らされる。ジャンル映画をやり切った過去2作と対照的に、今作は内容がジャンル映画に落ち着こうとすると邪魔が入る。放浪を続け、どの物語にも帰属できないユダヤ人。映画が映画として盛り上がることを母親が妨害している(演劇に感情移入して泣いていたのに、いや俺童貞か…?と気付く瞬間がマイベストシーン。悲しい笑い)。

ボーは自分の物語を走らせることが出来ず、男性としても自立していない。TDF Really Worksで男性器が爆発する悪夢を、The Turtle's Headで男性器が失くなる恐怖を描いたアリアスターは、去勢を題材にしてきた人でもある。ボーがあの年齢まで抑圧してきた男性性にああいう形で直面させられるのは、馬鹿馬鹿しいけれどなるほどなぁと思った。
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