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シン・仮面ライダーの84gのレビュー・感想・評価

シン・仮面ライダー(2023年製作の映画)
4.8
「五十年。幾度となく描かれた新たなる本郷猛と、そして初めて描かれる緑川ルリ子の人生の物語」


 ――本郷猛は改造人間である。彼を改造したショッカーは世界征服をたくらむ悪の秘密組織である――
 状況もわからないまま逃走する本郷猛は、緑川ルリ子と共にショッカーを脱出する。
 そしてルリ子の父、緑川博士から自分が人間でなくなり、そして渇望していた悪と戦う力を得たことを告げられる。
 改造された強靭すぎる肉体は、襲い掛かるショッカーの改造人間=オーグを叩き伏せ、そして悪の血によってまみれる。
 誰よりも優しい青年は、他者を傷つけることに震えながらも戦い続ける。
 見ず知らずの誰かのために、自分自身のため、そして緑川ルリ子のために――。



 このレビューを書いている筆者は、アイコンにオリジナル仮面ライダーを使う程度の、そういう種族の人間である。
 90年代。メタルヒーローが全盛、ライダーのテレビシリーズのない幼少期を過ごしながら、昭和ライダーのソフビをウルトラ怪獣のオモチャに叩きつけていた少年が三十歳をすぎてこの作品に出会ったのである。
 もちろん、劇場でマジ泣きしました。

 シンゴジラはゴジラというキャラクターをエヴァ的な要素で新たな地平で描き、
 シンウルトラマンは旧作の要素を再編集した初心者向けとどちらも新規ファンへの作品という印象が強かったが、今作品は旧作ファンの心を殴りつける。
 いや、もうね。各シーンごとにそれぞれに熱語りしたい。
 製作の人に「これ! アレのアレですよね!」って絶賛しながら酒飲みながら一緒に見たい。
 庵野ぉおおおお!って島本和彦のモノマネしながら叫びたい。
 平成ライダーでもお馴染みの出渕デザインでスタッフロールで確認したときも「だよね!」って感じ。
 各種要素については語りだすと終わらないしネタバレなので要点だけに頑張って絞るけど。

 主人公である本郷猛は、初代である藤岡弘、さんではワイルドで頼れる兄貴分というイメージがあり、このイメージの強さはBLACK、ZOやクウガといった原点回帰作品での主人公の姿にも強く反映されている。
 元々藤岡弘、さんの初代でも苦悩の描写は多かったが、人気爆発によって怪奇ホラーからアクション大作としての要素が強くなり、序盤以外は戦士・仮面ライダーとして描写されていく。
 ファーストでの黄川田将也さんでは学者肌のイメージとなったが、力強さも兼ねており、とうとうシンではマンガ版の石ノ森先生特有のナイーブで戦いの似合わない悩める青年として池松壮亮さんが熱演。
 そもそも仮面ライダーは、石ノ森先生原作ではあるが、テレビのコンプライアンスからスカルマン→ホッパーキングへの変遷、事故によって誕生した二号ライダーなど、ストーリーのプロットは恐らく当初のアイデアとは違ったものとなったことだろう。
 その中で描かれなかった「悲しみ苦しみ悩み、それでも立ち上がり、戦い抜くことを義務付けられた青年」が、初めて映像化された。
 そういう意味で、はじめて「本来の本郷猛」が映像化されたといっても良いだろう。
 ……念のため注釈しておくが、筆者は藤岡弘、氏のファンである。最も力強い笑顔の持ち主だと思う。
 テレビシリーズは大傑作である。筆者はアクション路線の仮面ライダー大好き怪人である。
 しかしながら、あえて、あえてそのイメージに立ち向かっている今作もまた、「シン」の名作なのである。
 弱いことも迷うことも戦わない理由にはならない。
 紛れもないヒーロー、仮面ライダーの伝説である。


 映像化による変遷といえば、緑川ルリ子である。
 マンガ版、特撮版ともに一号から二号へ移り変わる段階でフェードアウトし、彼女の後の物語は語られることはない。
 もちろん、SPIRITSのような二次的な外伝的作品で多く語られてはいるものの、「緑川ルリ子の物語は正史の中では未完結である」という事実はファンの共通認識として存在していた。
 「テレビでの藤岡弘、氏の事故というアクシデントにより二号ライダーの誕生によるプロット変更」。
 もちろん二号ライダーの誕生は奇跡であり、もし二号ライダーが誕生していなければ、仮面ライダーが他の特撮作品のように1年で終了していたか、少なくともV3から連なる神話的体系となることはななかっただろう。
 「一文字隼人=二号ライダーの登場と共に緑川ルリ子が離脱する」。
 それが本来の仮面ライダーの真のプロットであり、今回においても印象的に描写されている。
 仮面ライダーの肉体はショッカーの作り出した兵器であり、仮面や手袋、ブーツも与えられたものだが、今回はマフラーに約束と信念の要素としての新解釈が加わった。
 父親との死別も共通するファクターだが、母親が描写されたことはなく、他の親族も説明されることはなかった。
 設定としては彼女自身や父、本作とマンガ版で共通してヒロミという知人の存在はあったものの、彼女の人生が描写されることはなかったといっていい。
 本作によって映像作品で初めて描かれたショッカーと立ち向かうという彼女の運命、そして家族との対話が描かれることとなる。
 シンの意味での仮面ライダーの誕生においては、彼女のことを描写したことは、ファンとして本当に感謝の気持ちしかない。


 緑川ルリ子とは共存しなかった、二号ライダー・一文字隼人。
 マンガ版ではルリ子によって救われたが、その後ルリ子がフェードアウトしてしまい、その関係性は判然としなかったが、今作ではそこが深掘りされた。
 マンガ版では登場直後の衝撃的な展開のため、一文字のダブルライダーとしての活躍には制限が課せられた。
 マンガ版の衝撃的展開は、仮面ライダーダブルにおいて新解釈により映像化されていたが、シンでも独自の解釈を加えられている。
 しかしながら、今作では構成によってダブルライダーとしての描写も満腹度が強い。
 あの衝撃展開ももちろんすきだけど、ダブルライダーが並び立つシーンはやっぱり必須なのだよ……!
 仮面ライダーとは、一号ライダーを倒すためのコンバットマン、ショッカーライダーの一員であった彼が「仮面ライダー」を継承する物語でもある。
 仮面ライダーとは名前なのか、称号なのか、運命なのか、現象なのか、幻なのか、デストロイヤーなのか。
 その答えは分からないが、ただ視聴者は本郷猛がはじめた仮面ライダーという意志が一文字隼人へと継承される瞬間を目撃するのだ。
 一文字隼人はマンガ版・特撮版、そしてシンと共通して快活でシニカルな青年として描かれる。
 これは複数のクリエイターが同時進行でキャラクター描写を行った藤岡弘、さんの本郷猛とは異なり、最初からヒーローとしての仮面ライダー、そして飄々とした佐々木剛さんのイメージを共有していたことに理由があるように思う。
 自由を愛し、支配を嫌う風のような男、一文字隼人。
 今作において一文字隼人の「悲しみ」が説明、描写されることはほとんどない。カメラやペンを使って何かと戦っていたというのみである。
 マンガ版や特撮版の設定を鑑みれば予想はできるが、その絶望の中にあっても、一文字隼人は自分自身を見失わなかった。
 真のヒーロー、一文字隼人。ありがとう。
 改めて、一文字隼人という兄貴分に憧れて自分が大人になったことを思い出させてくれた。 


 アンチショッカー同盟という言葉はテレビ版では終盤において登場するが、今作品では序盤の終わり頃に描写されている。
 上手いと思ったのが、この言葉を出されると、あのふたりがあのふたりとは思わないんだよね。
 途中で「あ、そういうこと?」と消去法で気付くが、それでも自己紹介にはビックリした。


 そしてライダー対ライダー。
 この要素は初代からショッカーライダーとして取り入れられているが、本格的に描かれるようになったのは時代が平成に入ってから。
 語弊があるのはもちろん理解しているが、シャドームーンはライダー対ライダーの歴史において重要な転換点だった。
 その後、平成の様々な作品で磨かれてきた要素であり、最強の象徴たる仮面ライダーを最も脅かせるのは仮面ライダー自身である。
 それは連綿と受け継がれてきた仮面ライダーという文化のひとつの事実であり、それは今作品においても初代ライダーには存在していなかった要素として描写される。
 3人目であるV3のダブルタイフーン、シャドームーンを思わせるクラッシャーのない銀のマスク、ゼロワンたるイチロー、それを母をキーパーソンとする超能力戦士たる蝶に重なればイナズマンのような設定の、あの男。
 この辺りのマッシュアップによるキャラ作成は、どこか平成ライダーの手法を思わせる。
 他にもライダー以外のも石ノ森作品からのオマージュが多い。
 ワンセブン、ロボット刑事、キカイダーなどなど……この辺り、ぜひぜひ新規ファンもチェックしてみて欲しい。
 作中では技名を叫ばないんだけど、カメラワークや表現で「これはライダーキック……!」とか技名が頭に自然と浮かんだり、本当に良い作品です。


 作品全体がシンプルな構造なのだが、ハビダット世界やプラーナといった聞きなれない用語が溢れ、エヴァめいた難解さを演出している。
 しかしながら、これ、「ミノフスキー粒子」みたいな作品の非現実的なフィクションを要素をまとめて処理するマクガフィンにすぎないので、
 わからなければ「そのとき不思議なことがおこった!」みたいに聞き流せばいい。
 実はエヴァと違って全部ちゃんと説明してるし、雰囲気出し以上のものではないんだけど、そこに苦手意識を生じさせてしまうのはもったいないかな、とは思った。

 めっちゃ良かった。
 マジで。
 めっちゃ良かった。


 追記
 「エヴァっぽい」と感じるのは多分正しいけど、
 「製作者がエヴァに寄せている」とは、少なくとも仮面ライダーとエヴァをどちらも知っている筆者は感じなかった。
 むしろ、「エヴァを制作したときに製作者の中にあった要素がこぼれた」が妥当な見識に思える。
 固有名詞の難解さは確かにエヴァっぽさに通じてはいるが、当作においては過不足なく説明されているし、エヴァ特有の神話的ミステリーの要素を取り入れてはいない。
 どちらかというと、石ノ森作品のSFや文学的要素のモノローグ説明にインスパイアされた結果のように思える。
 個人的には製作者に「エヴァを見てないと楽しめない」要素を取り入れようとする意図はないように感じる。
 シンシリーズも俳優繋がりのファンサくらいに感じ、レビュアーごとの視点の差異を感じて面白かった。
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