「面白いんだけど、原作とは別物として考えた方が吉」
スランプに陥った作家は収入を得るために冬季のホテルの管理という仕事を引き受ける。
雪山にある景色の良いホテルだが、冬季はアクセスもできないが、放置すると凍り付いてしまうという。
設備が凍ったりしないように管理人が在住する必要があり、作家である男としてはカンヅメになれるので都合が良いということだ。
一人息子と妻はホテルの案内をされるが、そのときに息子は、ホテルのコックと共通の能力を持っていることを知る。
霊視のような力で、ふたりとも他者とは異なる感覚を持ち合わせていたのだ。
そして5か月間、三人家族は雪山のホテルに取り残されることとなる。
かつての管理人が狂気に苛まれ、自殺したというホテルに……。
スタンリー・キューブリック監督のスティーブン・キング原作映画ということで、その筋で有名。
映像としての完成度が高く、ホラー映画にありがちな起・承の退屈感がかなり少ない。
例の斧のシーンだけでなく、印象的に使われている鏡、雪、足へのダメージの細かい描写など。
映像として完成度がかなり高い。
個人的には、ホラー映画によくある、「被害者側のミスプ」が少ないのが評価したい。
例えば、ダメな映画だとノックアウトした犯人をそのまま放置したりする。
スクリーンに向かって何度、「縛れよ!」とか「閉じ込めろよ!」と叫んだことだろう。その辺も妥当性のある対応をしていて好き。
話は「不条理ホラー」。
日本の怪談とかで多い因果応報ではなく「落ち度もない一家が、謎の呪いの犠牲になる」というタイプ。
理詰めで考えるとかなり変なシーンが多い。
「オールワーク」のシーンから、作家の男はかなり早期から怪異の影響を受けていたことになる。
……なんで? アルコール依存症ってそんなに狂気に落ちやすいの?
いやまあ、ここで「怪異なんて存在せず、作家の男が狂っただけである」とするのは、他のシーンからして物理的に矛盾する。
それは、「首の傷」と「ドアの鍵」のシーン。
このふたつは首の傷と息子の証言、作家の脱出と、狂人ひとりの行動として物理的に不可能が起きている。
これらのシーンは、作家の男以外の狂人がいたことになる。
そもそも、ここで「他の怪異が物理的な力を持つ」というのは理屈に通らない。
それなら怪異はもっと連携して攻撃を仕掛けるべきだったし、
「迷路」のシーンでも主人公を援護して攻撃を続行できたはずだ。
他の怪異は幻覚ということで良いとしても、上記の矛盾をミステリー的に説明できるのはひとつ。
「実は妻も同じタイミングで狂気に陥っていた」だけである。
すなわち、首の傷は狂気の妻が鬼の形相で行った(または幻視によって)、息子は「知らない女」だと認識した。
ドアの鍵も「妻が寝たまま開けて、自室に戻った」なら、物理的に成立する。
息子の方が狂気に堕ち居ていた、でも成立はするが、やや不自然。
息子の狂気らしいシーンは「レッドラム」くらいだが、これは幻視の延長線と考えた方がスマート。
そもそも息子をコントロールできるなら「迷路」のシーンが説明できないし。
考察して本気で見ると、作家はかなり早期に夢を通じて狂気に陥っていたが、
妻は眠っているときなどに限定的にコントロールされる、てことにしないと整合性が取れない。
まあ、怪異に理由やルールを求めてはいけないのかもしれないけど、
没頭して視聴するってそういうことである。
というか、コスプレしたオッサンふたりのラブシーンやヌードババアは、変な面白さがあって笑っちゃったぞ。
ハリウッドザコシショウのセンスだよね。ザコシで笑える人は、多分笑える。
明らかに小説版とは違う解釈なんだけど、けど、映像作品だけで解釈すると、こういうことになってしまう。
映像的なインパクトを追求したい制作陣と、シナリオを見せたい原作がかなり親和してない。