R

女と男のいる舗道のRのレビュー・感想・評価

女と男のいる舗道(1962年製作の映画)
3.9
ナナを演じるアンナ・カリーナの美貌をたんまりと堪能できる一作。
序盤からお顔の抜きショットが続き、映画館で見たら誰もが呼吸をも忘れてしまうような、危うさと高貴さを兼ね備えた彼女。素晴らしい。

■映像作品の特徴を無視したオープニング
しばらく、だいぶしばらく静止画と勘違いするほどの「静」を決め込んだ画が続く。映像は人やモノの動線を視覚的に表せる媒体であるにもかかわらず、微動だにしないナナが映し出される。
頭からこの調子で、その先の第1幕も定点カメラで背中だけを見せらせるものだから、第一印象としては強烈極まりない。色彩という概念もないため、余計な情報が削がれ台詞に存分に集中できる。

■ “〜するのも 私の責任” “すべてが素敵だと思えばいいのよ”
イヴェットとの会話の中での印象的だったフレーズ。
あらゆる行為に対する、自らが負っている責任について説いている。頭を右を向かせるという小さなことから、何か物事をやめるという大きなことまで。全ての決断は自身の責任であると強く信じていると同時に、ここに素敵さを見出しているナナ。
「責任」と聞くとなんだかネガティブなイメージが伴いがちではあるが、ナナがこれをポジティブに捉えている点に感銘を受けた。
わたしは、【責任が伴う=裁量権がある】という等式が成立すると思っていて、自分自身のことについては特にここは守られている必要がある。“My Own Private Idaho”では、主人公マイクが生き延びるためには自身が体を売って生活するほかならないという設定だったことから、選ぶ余地があることへの幸福感を自覚すべきだというレビューを書いたことは記憶に新しい。本作でも然りで、裁量権があることへ、やはり感謝をしなければならないと改めて実感させられたのだった。

■なぜヒトは表現するのか
クライマックス、おじさまと哲学について意見を交わすシーンにて。
言葉で考えるのが人間だと、おじさまは言う。言い換えると、ロジカルシンキングを手にした唯一の動物こそ、私たち人間だということだ。
筋道立ててストーリーを作る映画も、人間だからこそ手がけられる所業だと思い知らされたし、言葉は私も毎日使うツールだからこそ、大切にしたい。何も傷つけない言葉を使いこなしたい。
まさに今書いているレビューも。

■60sの大衆音楽がちらり
レコードショップで流れていた音楽が、当時の流行を教えてくれる。“Last Night in Soho”の60sロンドンでも聞いた、少し尖った音色のエレクトーンが好きだなあ。
その時代には当然ながらITシステムは存在しないから、店主が各レコードの格納場所を把握している点に感動。便利な世の中だ。

個人的に最も気に入ったシーンは、”FIN”の出現するタイミング。
ナナの身に降りかかる出来事から間髪入れず、幕を閉じる映画。まるでこの出来事が何でもないことかのように。揶揄しているようにさえ思えるが、人っこひとりこうなったところで、皮肉なことに世界は回るんだな。

最後に、ナナは22歳設定だということが未だに信じられない。ほぼ同い年だが、既にバツイチということか。昔ってすごいな。
さらに分からないのが、中盤に風船をふくらましていた人のユーモアが分からなかった。細かすぎて伝わらないモノマネか何かだったのか。 #絶対違う
R

R