木陰

ベネデッタの木陰のレビュー・感想・評価

ベネデッタ(2021年製作の映画)
3.8

母からもらい、信仰の対象としてきた木彫りの聖母像は、バルトロメアとの邂逅によって半身が男根を模した性処理の道具になる。それはまるで、信仰と許されざる性の欲求が表裏一体であることを示しているようだ。彼女が祈りを捧げてきた聖母像は、人間の手によって容易に性処理道具に変えられてしまうし、ベネデッタも心と身体で、文字通り、それを受け入れる。信仰をするのも人間で、それを変えるのもまた人間の所業だ。

ベネデッタにはキリストが見えていたのか。見えていたとも見えていなかったとも言えると思う。たとえば幻覚や妄想、そういったものを彼女が神の形で捉えたなら、それは彼女にとっての真実になる。「声が聴こえる」「幽霊を見た」、人間の精神はあまりに不可思議で脆く、幻覚や幻聴に脅かされる人たちは実在する。そういった人とベネデッタを重ねたときに、現代医学では精神の病と診断されるものが、宗教の世界では神に見初められたと判断される。

外国では悪魔の存在が信じられている。エクソシストという映画では善良な少女が汚い言葉を吐いたり不可思議な身体の動きを見せて人々を怯えさせるが、現代医学で分かっている病の一つに、自身の意思とは関係なく汚い言葉を発してしまう汚言症という病がある。自身の意思とは関係なく身体が動いてしまうトゥレット症というものがある。
その病を知っている現代の私たちならそれを病と信じられるけれど、医学が発展していなかった時代にはそれは説明できない現象で、悪魔に乗り移られたと信じてしまうはずだ。そうした価値観が現代まで語り継がれ、悪魔の存在が今でも信じられているのではないか。
個人的には、当時説明できなかったそれらの病が、悪魔の正体だったりするのかもと思ったりする。


そういう視点から、ベネデッタは自身に見えた幻覚や幻聴を神と名づけ、それを自身の欲望と繋ぎ合わせていたのではないかと思った。彼女にとって神はそこにいたのだ。ベネデッタが自身の見えているものを神だと疑わなかったからこそ、他の人々との隔たりは埋められない。

神を信じるベネデッタ、そのベネデッタを神の代弁者と信じ彼女の言葉に従う信者たち、ベネデッタを疑い拷問という暴力で引き出した証言を信じる教皇たち。神や正義という名目で、それらを信じて実行していったのは、みな人間だ。神に祈るために重ねたその手を解いて武器を持ち、拳を握り、人を殴り、血塗れた手を重ねてまた祈る。

ベネデッタを信じなかった元修道院長は、自分の死の間際にベネデッタを信じた。ベネデッタは自作自演だと考えているバルトロメアは、火刑に処されるベネデッタの死を目前に「やめないと呪われるぞ」と神を信じているようなことを叫ぶ。その信仰は青い器の破片を見たことで消え去る。

ベネデッタというたった一人の女性の言葉を受け入れて簡単に暴力を振るうことを選んでしまう人間の信仰の狂気。自分や大切な人の死を目前にして、いとも簡単に覆されてしまう信仰の危うい脆さ。信仰の盲目さ、その残虐性が怖かった。

ベネデッタを裏切ったことを謝るバルトロメアに対し「裏切りも神の御心よ」と許す言葉を放ったベネデッタが、自身を欺瞞だと糾弾する人々には罰を与えて、自分を信じないことを許さないことは矛盾しているように思えた。神の御心なら、神は神を信じないことも許してくれるのではないか。
親愛なる人を許し、敵意を向けてくる人にはそれ以上の敵意を向ける。そのベネデッタの姿はまさに人間そのものに思えた。

または人格が違うだけの話で、バルトロメアを許したのはベネデッタで、人々を許さなかったのは彼女の身体を借りた神なのかもしれない。けれど、もしそうだとしたら、自分や自分の妻を信じない人々に怒りを向ける神の姿は、なんとも人間らしかったなと思えてならない。

性の立ち位置や痛みの意味など、キリスト教に対する知識が浅いために掴みきれていない部分が沢山あるだろうなと思う。そして掴みきれない部分が多くあることは面白いことだと思う。そんな浅い知識の中で、どうして神様は男性の姿をしているのだろうと不思議に思ったりしていた。
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