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ニトラム/NITRAMのtanayukiのレビュー・感想・評価

ニトラム/NITRAM(2021年製作の映画)
4.2
リュック・ベッソン監督『ドッグマン』で怪演ぶりを見せつけたケイレブ・ランドリー・ジョーンズに興味をもち、彼がカンヌで男優賞を獲ったというオーストラリア映画『ニトラム/NITRAM』を見てみた。いやあ、驚いた。ドッグマンがドッグマンになるには、それなりのストーリーがちゃんとあって、ケイレブはそれを見事に演じてみせたのだけど、ニトラムはそうじゃない。観客が彼の人となりを理解するための物語なんてほとんどなくて、ただもう最初からニトラムはニトラムで、なんというか、本物感がハンパない。ケイレブという役者は完全に姿を消し、素のままのニトラムがそこにいるという感じで、底知れぬ恐ろしさに心臓がバクバクする。

子供のときにそれで死にかけたはずなのに、なんのためらいもなく花火とたわむれ、なんのためらいもなく見知らぬ他人の家の敷地に入り込み、なんの前触れもなく初対面の相手に「芝生を刈らせてくれ」と直談判し、なんのためらいもなく運転中の車のハンドルを切る。タガが外れたというよりも、はじめからブレーキなんかないのではないかと思わせる淡々とした暴走ぶりがあまりにリアルで目が離せない。ド派手な演出のホラーなんてちっとも怖くないよと言わんばかりの圧倒的なクオリティ。日常に潜む恐怖ほど恐ろしいものはない。

タイトルのNITRAMはMARTINを逆から読んだもので、主人公マーティン・ブライアントの幼少期からのあだ名。というより、ちょっとおつむが足りないマーティンを揶揄した呼び名で、本人もそう呼ばれるのを嫌っている。だがマーティンはただのいじめられっ子ではなく、むしろ暴力を振るって学校現場に混乱をもたらす張本人だった。ダイビング中にほかの少年からシュノーケルを引き剥がす、近所の家の敷地内の木を勝手に切り倒す、10歳で小学校から停学処分を受けたあと動物虐待をしていた(いずれも英語版Wikipediaより)といった記録から浮かび上がってくるのは、抑えきれない暴力衝動の痕跡だ。

オーストリア大陸の端っこにあるタスマニア島の、さらに端っこのタスマン半島にあるポート・アーサーは、かつて同国最大の流刑植民地があった場所で、「オーストラリアの囚人遺跡群」として世界遺産登録されている。観光くらいしか目立った産業がない、そんなド田舎で35人が射殺され、23人が負傷した前代未聞の銃乱射事件が起きたのは1996年4月28日のことだった。

事件の顛末はウィキペディアに細かすぎるほと細かく詳述されている。それを読むと、マーティンが驚くほど執拗に、執念深く人の命を奪っていたことがわかる。殺し損ねた人を追いかけては撃ち殺し、いったん行きかけたのにわざわざ戻ってきてとどめを刺したりしているのだ。が、映画ではそれは描かれない。ふつうにカフェでフルーツとジュースの軽食を終え、テーブルの上にビデオカメラを設置したマーティンは、おもむろにAR-15自動小銃をバッグから取り出すと、客席のほうに歩き出す。いまにも撃ち始めるというそのタイミングで、映像は急に切り替わる。実家のテレビがいま起きたばかりの事件を報じている。横のテラスで母親が独り、煙草をくゆらせている。スクリーンが暗転したあと、以下の文字が無音のなか淡々と流れてくる。

「1996年4月28日、タスマニアのポート・アーサーにて、35人が死亡、23人が負傷。単独の武装犯は35回の終身刑を宣告された。この日の一件を機に、オーストラリアの銃規制の見直しが求められ、事件の12日後、全州が銃規制法に合意、64万丁を超す銃器が政府に買い取られ破棄された。しかしこの法律はどの州においても、完全には順守されていない。現在オーストラリアでは、1996年よりも多くの銃が所持されている」

明治維新のときに廃刀令を出して、侍たちから武器を奪った人たちに敬意を表したい。国内の武装解除が徹底されていなければ、日本でもいまだにあちこちで斬り合いが起きていたかもしれない。

△2024/03/14 U−NEXT鑑賞。スコア4.2
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