keith中村

最後の決闘裁判のkeith中村のレビュー・感想・評価

最後の決闘裁判(2021年製作の映画)
5.0
 リドリー・スコットの新作だから観ない法はないんだけれど、予告ではイマイチ面白そうには思えなかったんですよ、正直。
 しかし、観たら観たで圧倒的な面白さでしたよ。
 
 ところで、本作の予告と同じくらい何度も見たのが、同じ公開日だった原田監督の「燃えよ剣」の予告。
 
「燃えよ剣」の予告
岡田准一「あなたを巻き込むわけにはいかない」
柴咲コウ「とっくに巻き込まれています!」
 
「最後の決闘裁判」の予告
マット・デイモン「I'm risking my life for you」
ジョディ・カマー「You are risking my life!」
 
 言ってるセリフも似てるんだけど、カット割りまでほとんど一緒なのがおかしくって、それぞれの予告を見るたびにニヤニヤしてました。
 
 それと、同じく予告を見た時点で思ったことは、「リドリー・スコットもそろそろ終活を始めたんだなあ」という寂しさ。
 というのも、リドリー・スコットは決闘を描いた映画でデビューしたわけでしょ。その彼が、再び決闘ものに取り組んだというところ。
 処女作の「デュエリスト」は、キース・キャラダインとハーヴェイ・カイテルが何度決闘しようとしても、延々と邪魔が入って、何年も何十年も過ぎてしまうという、ブニュエルばりの不条理コメディでした。
 「デュエリスト」で描かれた「(決闘という同じアクションの)反復」もしくは「(決闘によって齎される死の)延期」を、若きリドリー・スコットがこれから何本も作品を撮ってキャリアを積み上げてゆくという高らかな自己言及的宣言もしくは決意表明だと仮置きするなら、本作はいよいよ老境に到ったリドリー・スコットが、延期していた「最後の決闘」を描く作品であり、つまりは「そろそろ終わらせる」という意思表示だと感じたのですよ。
 
 観終わって、やはり「終活」だとの印象は、確信へと変わりました。
 映画の終わりで、ある人物(たち)は無罪放免されるんですよね。
 無罪放免は英語で"scotfree"なんだけれど、ほら、これって、リドリーと夭逝しちゃった弟のトニーさんのプロダクション「Scott Free」のモジり元の単語じゃないですか。もちろん本作の最初にも流れたけど、黒い外套の男が鳥になって飛び立つ例のプロダクション・ロゴの会社ね。
 だから、リドリー爺さんの、「私はもうやりきったんで、鳥になって飛び立つよ」というメッセージだと感じたの。
(この思想は日本にもあって、堀口大學の「魂よ」の、「魂よ、/お前は扇なのだから、/そして夏はもう過ぎたのだから、/片隅のお前の席へ戻つておいで、/邪魔になつてはいけないのだから」に滅茶苦茶響き合いますよね!)。
 いや、リドリー爺さんはまだまだ現役だし、現役であってほしいし、精力的だし、何と言っても今年はもう一本グッチの映画があるし、製作総指揮した「ドーナツキング」もある。だから、ファンとしては、まだまだ新作を観たいんですよ!
 でも、御年83歳なら、「終活」の意識は間違いなくあるでしょ。彼より30歳若い私だって、最近は一週間に一回くらいは、メメント・モリしちゃうもんね。
 
 ともかく本作は、リドリー・スコット円熟期の最高級エンターテインメントでした。
 いや、扱ってるテーマは非常に現代的だし、重いものなんだけれど、それを一級の娯楽映画にしてしまう手腕が、さすがのリドリー・スコットということなんです。
 
 本作はいわゆる"Rashomon pictures"の一つ。
 芥川の「藪の中(ちょっと脱線するなら私が生まれた年にクライヴ・ドナーが監督した「茂みの中の欲望」にも似た題名)」もしくは黒澤の「羅生門」。
 芥川の「藪の中」と「羅生門」は別の小説ですが、ストーリーを「藪の中」、タイトルを「羅生門」にした黒澤は偉大ですね。だから、キャッチーな"Rashomon"が世界的ワードになってる。
 "Rashomon pictures"は、「信用できない語り手」ジャンルの、さらに狭いサブジャンル。
 「全員の証言が食い違う」って奴ね。マット・デイモンも若い頃、同じ構造の「戦火の勇気」に出てましたよね。
 で、このサブジャンルには2パターンあります。
 
①結局誰が正しいのかわからないまま終わる作品
②最終的に正しかった一人が明らかになる作品
 
 最初に生まれたのがパターン①なんでしょうね。文字通り「真相は藪の中」ってことです。
(「羅生門」の意識的なリメイクはマーティン・リット監督、ポール・ニューマン主演の「暴行」ですね。「暴行」ってかなり観てる人が少ない映画かな? 検非違使時代の「藪の中」でも、平安時代の「羅生門」でもなく、西部開拓時代を舞台に変更してましたけど)
 で、後からパターン②が誕生したんでしょう。後世になって、真実をハッキリさせる方が「強いメッセージを発する武器」だと気づいた誰かがパターン②をを発明したんだと考えます。
 パターン②も映画史上かなりの作品数だと思うけど、例によって今日も焼酎を煽りながら書いてますんで、まったく思い出せません。
 
 映画史じゃなく、「自分史」として面白かったのは覚えてますよ。
 1978年、10歳の時に観た「ナイル殺人事件」。
 何度か書いたけど、うちの親は「子供に子供映画を見せる」という発想がなく、「自分が観たい映画に子供を連れていく」というタイプでした(→詳しくは、私の野村芳太郎監督作品「しなの川」レビューを参照!)。で、「ナイル」はね、二番館だと「ルパン対マモー」と二本立てだったんです。
 小学4年生の私は、もちろん「ルパン」目当てでした。
 うちの親が「子供向け映画」に連れてってくれたこともほとんど初めてだったし。
 
 結果。
 「ルパン対マモー」最高でした。「ヒーローって死ぬの?!」って人生で最初にビックリしたのもこれだったかな。
 ただ、自分として「添え物」「消化試合」と覚悟して臨んだ「ナイル」も最高だったんですよ!
 何がって、当時はもちろんそんな言葉は知らなかったけど、「信頼できない語り手もの」に狂喜乱舞したんです。
 「ナイル」はポアロものなので、「いろんな推理によって、いろんな犯人の犯行現場が視覚的に再現される。しかし『真実はひとーつっ! ラーン! シンイチー!(←ごめん。雑音入った)』って作品。「様々な可能性が提示された後、名探偵によって真実が明かされる」というパターン②映画だったんですよ。
 そういや、ケネス・ブラナーさんのリメイクはいつ観られんの?!
(ウチの親父が偉かったのは、文庫本を読んだことがなかった10歳の私が「原作を読みたい!」ってせがんだ時に「ナイルに死す」じゃなく「アクロイド殺し」を買ってくれたことね。だからこそ「信頼できない語り手」と「叙述もの」両方ともずっと大好きだもの)
 ふう。
 今回もまた、相当脱線しましたが、何を言いたいかというと、本作はパターン②でしたね。
 
 現代的!
 そう。本作は14世紀の歴史的事件(さっき書いたけど、奈良時代でも平安時代でもウェスタンでもなく、日本で言うと室町時代に実際に起こった事件ですね)を描きつつも、現代においても全然進歩していないシチュエーションを描いているのです。
 それは、本作の中心に扱われるレイプ問題がもちろんそうなんだけれど、冊封体制=サラリーマン問題もそう。
 
 俺もね、もちろん勤め人なんですけど、10年くらい前からの立場が、第一幕のマット・デイモンそっくりなんですわ(笑)。
 「王aka会社」のために尽くします! と心底思って一生懸命働いても、結局そのすぐ下にいる「Lord aka 本部長」の覚えがめでたくなければ、冷や飯喰わされるんだ~(笑)。
 だから、第一幕はずっと映画館の暗闇の中で苦笑してました。
 おいおい、マット・デイモン、お前は俺か! みたいなね。マット・デイモン、年齢が近いし。私より二歳下の昭和45年生まれ。
 まあそんなマットも、結局本作では「汚れ役」なんだけれどね。ベン・アフレックと並んで。
 つーか、ベンさん(昭和47年生まれ)、金髪だったんで、実はエンドロールまで「誰だっけ?」って気づけませんでした。
 
 マットとベン偉いよ! 脚本も書いて、汚れも引き受けてる!
(っていうか、本作はジョディ・カマー以外全員「汚れ」だったけど)
 
 本作の脚本は「幼馴染のマットとベン」の共同作でしょ。
(私、勝手に彼ら二人の幼少時代を想像する時、いっつもそこに「お兄ちゃあああん、待ってよぉぉぉ!」と泣きながらついてくる「幼児ケイシー・アフレック(俺たちゃみんな昭和40年代生まれだけど、ケイシー、お前だけは昭和50年だよなっ!)」まで幻視して、「ケイシーな。お前まだガキンチョだから、Hide and Seekするにしても、靴隠しするにしても、イカゲーム(aka達磨さんが転んだaka関西では『坊さんが屁をこいた』するにしてもゴマメ・ルールな!」と、やさしい優しいマットとベンの姿に癒されます)←全部自分の勝手な想像だけれどね。
 
 ふう。
 今日はいつもにも増して駄文になってるな~。
 ずっと上の方に書いた話に戻しましょう。
 歴史的には「藪の中」だった出来事を、本作では、ジョディ・カマーの証言を明確な「真実」とする描き方になってるんです。
 つまりはパターン②の映画なんです。
 だからこそ今作られる意味がある作品!
 
 ああ。明日も仕事だというに、もう午前2時です。
 そろそろ終わろうと思います。今日は酔いながらも、結構書き尽くせた気がする。
 後書き洩らしたこと何かあったかな?
 
 あ! そうそう。
 英語のアクセント、気になりましたね。
 史劇って、イギリスの上流階級の英語を使うのが常套手段じゃないですか。
 でも、本作では、アメリカ英語がかなり使われてた。
 もっとも、アメリカ式に"R"を巻き舌(暗いR)にする方が、古典的なイギリス英語なんだろうし、アイルランド英語は母音は曖昧じゃないのに"R"だけは「暗いR」を現代でも使うから、(っていうか、本作はフランスが舞台だから、結局アクセントのすべてが「なんちゃって英語」なんだろうけれど)、本作を英語ネイティブの人がどう感じるのか、とても気になります。
 もし、わたしのレビューを英語ネイティブの人が読んでくださったなら、コメントをお願いします。
 
 だって、「娘=daughter」って単語の最期をR抜きに「doughtah」「ドータハ」みたいに発音してる同じ人が"before"ウア"とか"here"ウア"とか、巻き舌にしてるのです。これって、何か使い分けがあるのか、ご存知の方、教えてください。
 
 あと"Thou"じゃなく現代語の"You"とか使ってたのは、黒澤時代劇でも同じく「現代日本語」を使ってたので、全然許容範囲ですが(というか古語を使われたら絶対聴き取れなかったからありがたいんですが)、特にピエールを中心にcurse wordを使ってたのがメッチャ気になりました。
 14世紀当時に、"fucking"とか"cunt"とかの悪態ってあったの?!
 
 それと、「シャルルマーニュ」は英語式に「チャールズ」と発音してたのに、「ヘンリー」はフランス式に「アンリ」と言ってた統一感のなさも、そういうものなのかな?
 もっと言うと、「アンリ」はフランス式に「アンギ」(日本語じゃ表記出来ないわ。「ゲッ!」って痰を切るときの、フランス人とかドイツ人の"R")じゃなく、英語の"R"だったのも何か中途半端。
 どなたか、アクセントとかダイアレクトとかプロナンシエーションに長けた方がいらっしゃったら、ぜひ解説をお願いします!
 
 まあ、そこにモヤモヤしてても、本作が傑作であることには間違いはありません。
 だから、皆さん絶対劇場へGO!!!!
 
 って書いたあとの蛇足。
 ポール・ニューマンの「暴行」では最後が「三人の名付け親」みたくなってたけど、本作ではちゃんと「産みの親」で終わるところも素晴らしき哉!でした。あの領地で終わるところもね!