くわまんG

ゴッドファーザーPART IIIのくわまんGのレビュー・感想・評価

ゴッドファーザーPART III(1990年製作の映画)
4.0
この終幕には納得がいきません。なんで最後にこんな類いのプライベートなアイデアをのせたんだか。

以下、ネタバレ含みますのでご留意ください。また、宗教的側面を多分に含んだ内容ですが、自分は特定の教義に肩入れする者ではなく、尊重する立場にしかありません。その点もご了解いただけますと幸いです。

あらすじ:
1979年。莫大な資金を元手に慈善事業までも展開し、“実業家”となったマイケル。今日はカトリック教会からその功績を称えられ叙勲を受けることに。
今に辿り着くまで失ったものは無数。中でも妻子は諦められるものではない。歳をとり、若干の余裕と隙が生まれたマイケルは、叙勲式に妻子を呼ぶことにしたのだが…。

見所:
アル・パチーノとアンディ・ガルシア
極上の演出と音楽
脇役の立ちがやや甘い
やりっぱなしの社会批判
実在の事件を絡ませなくてよかった

前二作同様、やはり極めて重厚な作りです。演出と音楽の挿入は、とりわけクライマックスでその威力が炸裂。涙を誘います。
本作では伊達男アンディ・ガルシアが登場。猛々しいだけの若造が、覚悟を胸に成長するさまを見事に演じきっています。
トータルで名作と言われて然るべき作品だとは思います。

しかしね、全くもって納得できない点が二つあります。

一つ目は、マイケルがランベルト枢機卿に懺悔するシーン。枢機卿は水中の石に例えてカトリック教会の腐敗を説き、信仰をもって人を救うまことの聖職者。そんな枢機卿に諭されるように、マイケルは初めて、心の澱を吐き出します。思えば彼の人生は、仕事も家庭も常に薄氷の上でした。
ところが、マイケルの懺悔を聞いた枢機卿はこう言います。「神は救ってくださるが、君はそれを信じないし、改めないだろう。」。耳を疑いました。枢機卿が信仰を否定する立ち位置でないと成り立たない台詞です。迷える子羊をさらに迷わせたわけです。

二つ目はエンディング。枢機卿への懺悔を経て、マイケルは闇世界の住人となってから初めて神を信じようとします。形ばかりの叙勲を受けた時の彼とは別人です。ついに、勇気をもって、あの年齢で神に祈りを捧げたわけです。
そこへ起こる痛恨の悲劇。たがが外れるマイケル。あらまほしき未来の糧となってきた心温まる記憶がかけめぐり、精神破綻を来します。見つめる脇役がそれを悟り、悲しみを超えた無情を共有します。
そんな彼に、これ以上無いような罰とともに救われて然るべき彼に、あのエンディングは有り得ません。カトリックの教義に則れば、犯した罪の多寡が問題ではないのです。つまり因果応報とは、信仰を捨てた人間に当てはまるのであって、このように乱暴な暗黒を指すものではありません。
また、贖罪や冒涜といった言葉は宗教屋が都合よく作ったものであって、議論する意味も無いと思います。生自体が贖罪、というアイデアは過程においてこそ生きるのであって、結末を決定するものではありません。
ですから、マイケルには何を失っても愛される人生がこれから用意されているべきだったはずです。これでは主旨がぶれてしまっています。
教会の腐敗や信仰の希薄化やなんかを訴えるためにこんな仕上げにしたのかなと邪推しますが、これはまずかったんじゃないでしょうか。加えて、実際の出来事とリンクさせたのは、無理ばかり出て更にまずかったと思います。

1と2をご覧になった方におすすめできるかと言うとイエスですが、手放しでというわけにはいかない作品です。