騎兵隊三部作は『アパッチ砦』しか観ておらず『黄色いリボン』『リオ・グランデの砦』観ないとなーと『ジョン・フォード論』を半分くらい読んでやめたまま、数ヶ月経ってた。
オープニングで騎兵隊が負傷兵の載せ>>続きを読む
パレスチナ人男性のインタビューをユダヤ系の女性がとるシーン、この映画が無ければ彼らの邂逅と言葉(たとえそれが役柄で実際の出自は違うとしても)は無かったんだなと、ふと思った。そこにネイティブ・アメリカン>>続きを読む
なんといってもオープニングがすごすぎる!予告編のような結婚までのドタバタダイジェストといい刺繍文字の入れ子的なレイヤーといい、キマりまくっている。
美貌を武器に男たちを明るく騙しまくるクローデット・コ>>続きを読む
地上波でやっていたので久しぶりにテレビをつけて観てみた。
『ボディ・スナッチャー』オリジナル版のでっかい絹サヤから人のかたちが出来てくるシーンのTV放映とグレムリンの孵化シーンが重ねられてる。
お母さ>>続きを読む
最後のクレジットに「聖書協会の協力を得て撮影」と出ていたけどよく許可したなと。明らかに啓蒙にも販促にもならないし、経済的なものだけでない貧しさと憂鬱とカラ元気のループを皮相にあぶり出してる。オープニン>>続きを読む
銃撃で右手を上手く使えなくなる序盤からすでに不全な状態の主人公が、知恵をもって活躍するほどでもなく、かといって右手が回復するわけでもなく、早撃ち名人の若者に助けられ彼にハッピーエンドを爽やかに譲るとい>>続きを読む
二十数年ぶりに観たと思う。撮影が頓挫したときのニュースもなんとなく覚えてるし、鳴り物入りで公開されてた。
初めて観たとき、なんとなくひっかかる映画だと思ってた。通っていた学校の周りの人たちにももてはや>>続きを読む
豹、仔鹿、キツネ、馬など動物が役者たちの姿にあてられるオープニング・タイトルが明けてから、すでにけたたましい。
女性しか出てこないこの喜劇のありようは日本バブル期のトレンディドラマに継承されたかのよう>>続きを読む
意図的な散文が円形の土間舞台に収斂されてゆく。これはフェリーニの集大成なのかも。『8 1/2』の次に好きなフェリーニかも。
アマルコルド的郷愁における奇矯な人々とのでこぼこした共存、「亡霊」となったイ>>続きを読む
前半ケイリー・グラントの軽さと強引さでほとんどロマンチックコメディのようになっておりちょうど半分くらいでようやくサスペンスの要素がじわじわと出てくるので、99分とさほどの尺ではないのに長く感じた。
新>>続きを読む
すげえ面白い。これの前に観たフライシャー『見えない恐怖』に続いて本作も足元ショットの連続で始まる。
白黒コンビとウィングチップという靴の出会いは狂気による袖すり合うも他生の縁となり、ラストでも軽妙に効>>続きを読む
映画の醍醐味にあふれている。「何を撮るか」よりも「どう撮るか」だよなーとしみじみ思う。この短さといい、予算も特別な脚本も道具もない中で作り手が手腕を振るうB級ノワールの見本のような、それが70年代に再>>続きを読む
物語として作り上げられること・語られることの疑念が主人公のガウェイン卿によって表されていて、彼が「まだ語るべき物語が無い」"Not yet”と述べるが、信念や力を持っていること=語られるべき者なのか、>>続きを読む
南風洋子のやたら颯爽とした立居振る舞いから小走りジャンプ、患者縛り上げ等々の過剰な登場シーンや、前線へ送られる命令を受けた男女二人の完璧にシンクロする回れ右、から平野をさーっと横切るサイドカー付きバイ>>続きを読む
はじめて観てからもう20年とは。初見では「ホノルル 午前二時ぃぃ〜」とクレイジーケンバンドの曲が流れてきてマルック・ペルトラが慎重に箸を持って寿司を食べるシーンが強烈だったが、今日観たら記憶してたより>>続きを読む
久しぶりに観た。
4分の3くらいはどんどん追い詰められてる。レストラン「ドヴロヴニク」最後の日のシーンはフィンランドのムード歌謡イスケルマをフルコーラスで聴かせてて、その歌詞と踊る人々を支配人の心情に>>続きを読む
これも長年なんとなく避けてきた。けどいつかは観なくてはと思ってた。
物語が物語として成立しているゴダール作品は女性の貶められる感じがどうも苦手だし、間違いなく「かっこいい」のだろうけどそれ以外の感想を>>続きを読む
長年なんとなく避けてきたが予想外に大変面白かった。作り手たちの気合いが漲っており飽きるところがない。
広大な人工的な庭園と豪奢な邸宅の空間にオブジェクトとしてのヒト、肉体を立たせ、キリコかデルヴォーの>>続きを読む
不穏さがすべてに按配されている。台詞も音も非常に少なく、とにかく説明くさい要素を徹底的に排除している点は安心して観られた。抑制的な不穏さと不安定さで、画が大変美しい。静謐だがカメラは意外と動いている。>>続きを読む
アニエス・ヴァルダが00年代ごろから映像を用いたインスタレーションを積極的に発表していたことを知らなかった。
思えば『ラ・ポワント・クールト』からすでに「映画の外側」からの視点を物語にすべり込ませてい>>続きを読む
これは物語の外にある物語だから、彼女をめぐって正面ショットカメラ目線で語る人々がいる。
言葉によって、語る人々の記憶は修飾される。ときに弁明となり修正される。記憶の中にある彼女は、彼女そのものではない>>続きを読む
『アンドレイ・ルブリョフ』『スラブ砦の伝説』など民族史的表現や、ヴォイチェフ・イエジー・ハス、ヤロミール・イレシュなどの幻想表現、もしかしたら『ウィッカーマン』あたりの土俗信仰を現代に再現したかったの>>続きを読む
1896年か1900年か、どっちなんだ?
1896年だとしたらおそらくアリス・ギイが終業したあとに作っていた余技扱いの作品だろうに、カメラのフレームに収まるサイズで作られた背景やキャベツの書き割りなど>>続きを読む
フランスの昔の紙幣はめちゃくちゃ大きくてぎょっとする。B5くらいあるのでは。
喜劇的立ち位置としての浮浪者、のちのチャップリンに通じるのだろうが、映画というより大道芸や大衆喜劇の頃からレギュラーキャラ>>続きを読む
お遣いに行くいつもの道が市民により封鎖されるが、少年は非常事態を当たり前と受け止めているようにも見える。銃撃シーンは全く古びた表現ではなく、バリケード上で市民らがあっという間に撃ち殺され素早く処刑され>>続きを読む
野球場みたいな右手前のでかい照明がめちゃくちゃ暑そう。構図と陰影がいい。ちょっとゴダールの『パッション』を思い出した。
世界初のメイキング映像かもしれないとのこと。クロノフォンを用いた撮影風景なので、>>続きを読む
この日観たアリス・ギイ作品の中で最もよかった。何の含蓄も無い狂騒に終始するのがまたよい。『キャスターつきベッド』以上に市井の群衆の圧倒的な流れが強調され、スラップスティックなアクロバット芸が徹底してい>>続きを読む
最初の映画とされるリュミエール兄弟のそれが「記録」であったことに対し、ファンタジックな奇想天外なもの、映画でしかできないものを表そうとしたのがアリス・ギイとのこと。
ファンタジックな見世物的映画として>>続きを読む
男女のジェンダーが逆転した世界という、かなり先駆的な作品。なんなのこの皮肉な普遍性!
活弁の台詞では、男性はやや優しげな感じだが男ことば、女性は強そうで横柄だが女ことばで演じ分けていた。このへんのチョ>>続きを読む
これはすごい。女性は慎ましやかであるべきという不文律を踏み砕くように、女性の欲望を肯定的かつ豪胆に表現してる。浮浪者=弱者からも奪い取ることをものともせず、アブサンをあおったりパイプをふかしたりなど反>>続きを読む
ゴーモン社のクロノフォンという技術らしい。トーキーのため活弁と伴奏無し。
松竹映画の土橋式フォーンを鑑賞したときの音割れのひどさを考えたらなんてきれいなスムーズな音で残ってるのだろうと感心してたら、新>>続きを読む
ノーカットでのスラップスティック。構図が妙に味わい深い。一発勝負の緊張も感じないくらい伸びやかで躍動的。
『映画はアリスから始まった』の中でこの作品を再現していた。『ベルリンのリュミエール』でもスク>>続きを読む
猫やらを入れてハンドルを回すと一方から挽肉が出てきてもう一方からは次々帽子が出てくる。全く意味の無いわけのわからない面白さ。
チャーリー・バワーズより早い。
川越スカラ座 弁士・伴奏付き「アリス・ギ>>続きを読む
パリオペラ通りロングショットを逆再生している。トリック撮影としての「発明」(これもアリス・ギイが嚆矢かは不明。本日のアフタートークでもあったが、『ベルリンのリュミエール』のスクラダノウスキー兄弟しかり>>続きを読む
手脚を切断されるのが何故ちょけた人形?と思ったら瞬間的に人間と入れ替わるトリック撮影。編集点が絶妙。生き生きしてる。彼女の作品には思いついたらやったもん勝ちといった勢いがある。
川越スカラ座イベント>>続きを読む
メリエスのトリック撮影でもよく見られる(アリス・ギイの方が先?)同ポジのカット割により衣装が脱がされたり入れ替わったり、果てには人が入れ替わる。
彼女の他作品での社会学的アプローチを考えると、トランス>>続きを読む