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VORTEX ヴォルテックスのroppuのレビュー・感想・評価

VORTEX ヴォルテックス(2021年製作の映画)
4.5
二分割された画面、看取られる側と看取る側、つまり能動者と受動者という関係。
"わたし(フランス語でいうところのje)"という現象、それをそれたらしめるのは他者との関係性の中で生まれる。
撮影されているものが主体になったり目的体になったりすることの曖昧さ、居心地の悪さ(その中でしか存在し得ない僕たちの複雑な生(愛)と死)。

居心地の悪さ、といえば、ギャスパー・ノエの映画を作る上での常套手段である。それはミヒャエル・ハネケのようなリアリズムというよりは、もっと趣味嗜好的な、あえて言うなら他者に挑戦することで作品の輪郭を整えていくような少し面倒な人間の仕方であって、慣れれば鑑賞者の中でも飼いならされるようなかわいいやつだと思う。

「映画は夢だ」と言う若干具体性の欠けるやり取りは、『女は女である』のポスター、ブニュエル、フェリーニ、溝口を作品に配置することでアーキテクチャを作る。『メトロポリス』が過度意識的に置かれていることに関しても、冒頭の、脳がどうとか身体がどうとか言っているセリフとも噛み合うのだと思う(もう一度観て確認する必要がある)。

上に述べたように、この人は観客を馬鹿にするために映画を作っているのかなと思うときがあるのだけれど、今回もちょっと馬鹿にされた気分。
そして、観客はこの馬鹿にされることを鑑賞前に準備して挑まなければいけないこと、これがギャスパー・ノエが今だにパンクとも呼べそうな映画を作れる原動力であるのかもしれない。

笑えてたはずのものが、いつの間にか笑えなくなっちゃった(照)みたいな常套手段、なんやかんやみんな好きなんだよ。
小学校の給食で、きったない雑巾の臭い匂いを、視覚的に認めておきながら、それでも嗅がずにはいられないような動物的な感覚をくすぐるようなことを、彼はずっとやっている。
その匂いがいつも想像を遥かに超えた悪臭を放つことに関しても、彼はやっぱり偉い。

とはいっても、今回はまた、そんないつものギャスパー・ノエとは違うものを魅せてもらった気がする。
この人は、いつだって身体性、シンボリズムとしてのドラッグを、セックスを、暴力を、ダンスを描いてきたのであった。

おそらく?彼の作品では老夫婦というキャラクタは初めてではなかろうか。

このつまらないグダグダした作品を観た後、またこの人が描いてきたものの根源的なヒントを得れた気がする。
この人は必死に生きようとしているのかもしれない。ものすごく心優しい人なんじゃないだろうか、とすら思わされる。

ドラッグ、セックス、生を描こうとすると、死に近づくこと。
そして、誰もが等しく享受する死的なものを描こうとすると、生的なものを避けて通れないこと。

ギャスパー・ノエ作品の中では、観客はいつも被害者であり、また目撃者である。
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