国家や司法、構造的権力に対峙した、否しなければならなった人。彼女は女性であり、母親であり、セネガル人移民であった。
映画は訴える、そして司法は辿る、なぜ、彼女が裁判にかけられることになったか。そして、傍聴席でもう一人の彼女は傍観する。
司法が見落とした件、それはある社会構造によって虐められる人々の葛藤、生まれの記憶。言葉を使う司法では訴えられないものを映画がやってみせた。
残念なことではあるが、この映画を見て思い出すのは、日本に技能実習生としてやってきたベトナム人女性が、生まれた子どもの遺体を遺棄したという疑いで裁判にかけられたあの件である。
彼女の孤独、構造的女性差別と暴力がある中(国家が指定するという定義での)外国人排他を受けた人々が、なぜそこに至ったかというのを、裁判官だけでなく、ニュース報道を見る僕たちのモラルが問われていた。
被告としての彼女は2年以上の論争の後、先日最高裁で無罪の逆転判決を受けた。
かけられた容疑の前提にあったもの、彼女の訴える言葉の裏に潜んでいたものを凌駕したのは、彼女の微笑みであった。
その微笑みそのものが汲み取ったもの、そしてその微笑みから汲み取られたものとは、社会構造が交差する落とし穴にハマった人々の痛みである。
映画は始まってから終わる。しかし、映画後も終わらないもの、この映画を通して始まるかもしれないものを、この映画で目撃した。