共感性のなさが人を救う映画だ。
みんなで話をしている時、会社で会議をしている時、「空気を読む」ことがある。
空気を読んで、反論をしない。
空気を読んで、面白くないけどとりあえず笑っておく。
空気を読んで、やりたくないことを引き受ける。
考えてみると「空気を読む」時、消極的な選択をしていることが多い。
空気を読んで真っ先に怒る。
空気を読んで誰よりも大笑いする。
という空気の読み方もあるはずだが、そういうことは少ない。
日本は「察する文化」「空気を読む」文化と言われる。けど実は、現代の日本はそのような行為に適していない。
「空気を読む」は地域コミュニティのようなハイコンテクストな場だから成り立つ行為だ。周囲の人間の文化、生活習慣、物事に対するスタンスが一定であることが前提の行為だからだ。
「人それぞれ」と「空気を読む」は相反する。現代のような、人それぞれの文化の中では、本来空気を読むことができない。
だから「何もしない=場に影響力を与えない」という一見空気を読んでいそうな行為でお茶を濁す。
現代のような人それぞれの文化の中では、むしろ「空気を読まない」方が人を救うのかもしれない。この映画を観てそう思った。
「恋、というものがわからないのです」と言って、恋を定義するための交換日記をしてしまうような人間。
「定義する」とは「人それぞれにしない」ということだ。
ローコンテクストな現代社会で、見せかけの共感や空気を読む態度は、輪を消滅させる。
定義しようではないか。
人それぞれの中に、それぞれではないものを放り込もう。
人それぞれは、最も自由なように見えて、最も不自由なのだから。
YouTubeでも配信してます。
よかったら☺️
https://youtu.be/gxLCmFWuSSY