このレビューはネタバレを含みます
フランソワ・トリュフォーの『大人は分かってくれない』によく似たラストシーン。
アントワーヌは海辺へ行くあてもなく走るが、あみ子はスキップだ。なぜなら、あみ子はアントワーヌほど、置かれた状況に自覚的じゃないから。
『大人は分かってくれない』は、社会から断絶された子供を描いたが、『こちらあみ子』は社会そのもののアトム化が描かれている分、より深刻だ。
「応答せよ応答せよ、こちらあみ子」
トランシーバーに語りかけても、その声は届かない。
あみ子の声だけではない。
お父さんの声
お母さんの声
お兄ちゃんの声
みんなが応答願っているけど、声はどこにも届かない。
家族の声は、社会に届かない。
家族は子や妻の声を聞く余裕がない。
「怖い怖い怖い。お兄ちゃん、助けて怖いんじゃ。」
助けを求めると、お兄ちゃんはやってくる。
人は助けを求めれば手を差し伸べられるのだ。
しかし、人は簡単に助けを求められるほど、強くはないし、そもそも自分のことを分かっていない。
「おーい、まだ冷たいじゃろ。」
他人の何気ない声かけが人を救う。
人は人に少しづつ見守られながら生きている。
愛とはそのような些細なものの積み重ねなのだと思う。