AKALIVE

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスのAKALIVEのレビュー・感想・評価

5.0

            リ シ
           ヴ   ン
          エ     グ


    エ     リ      ア
            ホ
     何  ヴ       エ
            で も 
          処
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マーク・フィッシャー 最終講義:ポスト資本主義の欲望 Mark Fisher POSTCAPITALIST DESIRE : THE FINAL LECTURESの帯に書かれた汚らわしい売り文句『「サイケデリックな理性」だけが資本主義を超える』のことや、1970年代前半のデヴィッド・ボウイの並々ならぬ努力が、頭を駆け巡った。。他にもボウイのカヴァーをテレビで披露したカート・コバーンのことや、映画特有のどアップの顔のやりとり、場面による説明の驚き。。。バビロンが音で撮った映画だとするなら、エヴエヴは思想で撮った映画だろう。。以上、非常に反映画・反スペクタクルな映画に出逢いつづけている!!!!!!!!!もうワケがわからない😵‍💫

デヴィッド・ボウイ//ジギー・スターダストと同様に、昨々夜からミシェル・ヨー//エヴリン・ワン・クワンの『優しさ』に心を持ってかれている。。。。マルティヴァースの彼女は成功者なんだけれども、各々状況に安住している様でもあり。我らがエヴリンは違う。『可能性』だけは誰にも負けない。李小龍 龍爭虎鬥 ブルース・リー 燃えよドラゴン『鏡の間』のオマージュや、語弊があるがアジア人の言語的復讐🤨『あんたらこそ形容詞を占有するな!』スーパー・ファーリー・アニマルズ ノー・シンパシーの歌詞🌏。でもって、その楽曲後半の躁病的なビートは、エヴエヴの世界観//編集と頭の中で一緒くたになるなど😵‍💫

最後に妄想やら引用やらを。。。。まるで狂気⚠️
次は365つ目のレビュー🙇🏻なんら成長しない惑星が一周したのです😵‍💫

(私が)書き始めた頃から、(私に)常にまとわりついたのは、その瞬間書いているコトが、(何か)次に書くコトを用意しているフィーリングでした … 私はいない🫠

 🌏「トム少佐 … ?」
           🖼️「 逢いたいよぉ 」
    🩻「ボクハ … ジャックノ … ハイデス」
🪅

🍩「俺は双子のドナルド」   💸「いや、詐欺師」
    🛎️「ただの呼び鈴」
            📑「助けて助けて助けて」

    🌏🖼️🩻🍩💸🛎️📑「オレたち!妄想族!!!」

『バルド』(2022)
人の内宇宙にもとより多面性があるが、偏らないように外宇宙とつながり続ける、人生の旅。。次世代からインスパイアされる。愛ある眼差しこそあれど、生まれてくれない👶🏼

『ショート・カッツ』(1993)
人の外部に街があり、主役かと思うと脇役、街という1の生物を9の器官が9篇の短篇形式で表現している。。生き返ろうとするけれど愚かな街のための心臓の鼓動🫀を止める👦🏼

⑴MF「カート・コバーンとニルヴァーナほど、この膠着状態を体現した(またそれと闘った)類例はない。その凄まじい倦怠感と対象なき怒りにおいて、コバーンは、歴史の後に生まれた世代、あらゆる動きが事前に予測され、追跡され、購入され、売却される世代の声となって、彼らの失望と疲労感をあらわすと思われた。自分自身もまたスペクタクルの延長に過ぎないことを知り、MTVへの批判ほど、MTVの視聴率を上げるものはないということを知り … 」

⑵MF「 … あなたがポスト資本主義について語るとき、そこでは資本主義を超えた何かが存在していることが含意されています。それはまた、方向性を暗示しています。それがポスト資本主義である以上、それは勝利である、すなわち資本主義を経由して現れるであろう勝利なのです。それは単に資本主義に対立するものではありません。それは資本主義が終了したときに起こるであろう何かです。それは今わたしたちがいる場所から始まります」


書きたいという気持ちを『確かめる』には、書くしかないんだなと想います。しかし、複雑なスペクタクルの社会の《生》の終わり(𝗕𝗔𝗥𝗗𝗢)においても、現実はまだ傷だらけ(𝖲𝖧𝖮𝖱𝖳 𝗖𝗨𝗧𝗦)で存在しており。。どっちなんだろう?どっちもか!!資本主義リアリズム⑴もポスト資本主義リアリズム⑵も両方生きているのか!?

デヴィッド・ボウイの歌詞はカット・アップによって主語がないとされる。命令調の扇動。しかし押し付けがましさもない。『優しい』!!!そう、映画のラストに流れるべきだったのだ。ロンドンのハマースミス・オデオン サフラジェット・シティ🎶

想像して?堅苦しい母親が変態行為をして世界を救うんだよ?!それはジギー・スターダストの敗北の物語とは微妙に違う。これからはジギーが勝利(🫂ρυηк)するのだ。やっとだ🛸

























            ロックの名盤とされる
           『ジギー・スターダスト』
           その正体は赤線地帯出身の
          異端の労働階級出身者だった
         彼は生まれ故郷で親しんだ
        パフォーマンスを輸出して
       人気を博するが
     「革命が始まる?」
     という泡沫の夢は
      ハジけてまた
       退屈な世界に⚡️
        とんでもない変態ぶり
          そう理解している
          ギー・ドゥボール
       『スペクタクルの社会』
       この本を読みまくった
      それがあのまやかしの
     パフォーマンスだった
    ⚡️演技だと白状する
   悲しみの産物なんだけど
  きみは〈観客席〉を立たない
 すべての芸術は商品になるんだ

               モウソウ
              デカイテルカラ
             ダイジョウブカシラ
              スコア5.0デス
              シホンカ……メ
               ヒトビトノ
               クサリヲ
                トケ‼︎

























📰

https://www.brightwalldarkroom.com/2019/07/02/robert-altman-short-cuts-1993/

「場所には力があります。私たちが読んだり観たりする物語を通して、場所には力が宿っているのです。多くの人にとって、ロンドンはシャーロック・ホームズと切り裂きジャックであり、一方はフィクション、他方は伝説へと発展した真実である。パリは、6月の反乱で失われたジャベールとコゼット、あるいは、その炎が行ったことのない人たちの記憶を呼び起こすノートルダム寺院です。ニューヨークは、ウディ・アレンのロマンティックなものであったり、マーティン・スコセッシの暴力的なものであったりする。幼い頃、『アラジン』の魔法でアラブ世界を初めて体験した人がどれだけいるだろうか。

ストーリーは、その土地の神話を作る。伝説が事実となった後、その伝説の地図となる。

ロサンゼルスは、このような神話を作るのにうってつけの場所である。ハリウッドは、若いスター女優たちが大成功を収めようと、あるいは少数の権力者に潰されようとやって来る場所である。映画『スタア誕生』から『ラ・ラ・ランド』まで、LAは才能を見出される場所であり、『チャイナタウン』や『L.A.コンフィデンシャル』といったノワール犯罪ドラマでは、殺人と悪徳の巣窟と化した薄暗い場所である。

しかし、ロサンゼルスは映画的なロマンスに彩られた場所であるにもかかわらず、人々が生活する場所に過ぎない。ハリウッドの大物でも、運の悪い私立探偵でも、麻薬王でも、中西部のトウモロコシ畑から来たナイーヴな少女でもなく、仕事と家庭を持ち、私たちを悩ませる同じような悩みを持つ、ごく普通の人々である。

だからこそ、ロバート・アルトマンは、神話的な力を持つ場所について語れる、最も色気のない物語集『ショート・カッツ』を作ることになったのです。

彼はロサンゼルスをモノクロームの郊外に縮小したのです。

前作『ザ・プレイヤー』では、ハリウッドの華やかさをそのままに、酔わせるとともに嫌悪感を抱かせるようなLAが描かれているのだが、『ショート・カッツ』はそのような作品ではない。ハリウッドとビヴァリーヒルズがLAの重要な臓器だとすれば、『ショート・カッツ』は、この街を支えている筋や腱、つまり、人々が暮らし、遊び、働き、死んでいく、忘れられた名前の中間的な場所を探求しているのだ。『ショート・カッツ』の22人の登場人物のうち、映画業界で働いている者はいない(1人はメイクアップ・アーティストの勉強中)。唯一の有名人はアレックス・トレベックで、彼は一生に一度だけ登場する世捨て人のようなスターとして注目される〔そう、映画『エヴエヴ』の多元宇宙のエヴリン達は果たして家庭人なのだろうか?パートナーはいるのか?娘ジョイはいるのか? cf 「僕は君の夫じゃない」〕。

レイモンド・カーヴァーによって描かれた、冴えない、半ば酩酊したような日常生活。彼の飾り気のない、感情から離れた散文は、彼が物語に登場させる中流以下の人々の悲しく、情熱のない生活を反映している。彼の物語をロサンゼルスに置き換えることで、アルトマンは、私たちが想像するロサンゼルスというよりも、私たちの多くが知ろうともしない本当のロサンゼルスを描いた物語を作り上げたのです。華やかでもなく、老朽化もなく、ニューヨークのような都会のジャングルでもなく、小さな町のようなアメリカの牧歌的な雰囲気でもない。それは、この国の多くを占める、何の変哲もない、飾り気のない、匿名の土地である。アルトマンは、天使の都を、人間のための国内の動物園として、平らにし、LAをユニークなものにしているものを取り除き、ありふれたもの、つまり平らな郊外のAnywhereにしたのだ。

運は神秘的な力を持ち、、偶然は出来事の一致をどう解釈するかということであり、、事故は外部の力ではなく、私たち自身の責任を指摘するものです。不運は私のせいではなく、、奇妙な偶然は私の力の及ばないところであるが、、しかし、事故はほとんどの場合、私たち人間の不注意によって引き起こされます。

映画のあらゆる『 事故 』は、敵意や憎しみから起こるのではなく、文明人であるはずの人々の日常の不注意から起こるのです。もっと知っているはずの人たちが。

道路を横断するときに左右を確認しない。愛する人が苦しんでいるときに耳を傾けない。恐怖や怒り、孤独を声から感じ取らない。テレフォン・セックスのオペレーターであるロイスは、自分の仕事がどれほど夫に不快感を与えているかを理解していない、いや、おそらく気にしていない。ハワードの息子が入院したとき、そばにいてあげずに、30年前に自分がしたひどい選択を息子に合理化しようとする、ポールのことでもある。人々は互いを追い越して、追い越して、まるで外国語であるかのような英語で会話している。他人のニーズだけでなく、他人に対しても無関心であることが、登場人物たちを苦しめているのです。物事を観ることはできても、それを知覚する能力がないのだ。

私たちは大きなタペストリーの中に生きているが、ほとんどの映画ではその中のほんの一端しか観せてくれない。アルトマンは、運命や運や偶然の比喩としてではなく、世界の基本的な機械としてパノラマを提供する。

彼らは、知覚することなく観ること(サイモンとガーファンクルの言葉を借りれば、『話すことなく話すこと … 聴くことなく聴くこと』)で、人生を自動的に生きている。このことは、アルトマンのもう一つのトレードマークである『オーヴァーラップする台詞』と完璧に調和している。この手法は、その自然さが評価されているが、人がどのように話すかだけでなく、人がどのように聴くか、あるいは聴かないか、場合によっては、そのようなことです。

クレアが夫に、死体への無頓着さについて質問し、彼が弁解の余地のない行動だと知っていることを合理化しようとするのを聴いてください。まるで違う世界にいるような会話です。さらに、ドリーンは、車で少年を殺すのを防いだ幸運を褒め称える。彼女がどれほど間違っているかは、私たちだけが知っている。

このような事故の前兆となる無頓着さは、『ショート・カッツ』の2つのモチーフに見ることができる。まず、子供に対する無関心である。彼らは人間としてではなく、どちらかといえば、連れ歩くための荷物として描かれている。ロイスは子供たちの目の前で電話によるセックスの仕事をする。ジーンは子供たちが自分の足にしがみついていながら、妻に向かって叫び、家中を歩き回るが、彼にとっては子供たちは鳴き続ける犬のように取るに足らない存在かもしれない(後に彼は大嫌いな犬を誘拐し、犬の絶え間ない吠え声よりも子供たちの嘆願の方が煩わしくなって初めて、犬を連れ戻すのである)。

子供も大人も同じように子守りをするテレビの存在。アルトマンは多くのシーンをテレビ画面で始め、テレビ画面で終わらせている。この映画で描かれるテレビは、私たち自身の画面に対する執着心に似ている。20人もの登場人物が、世界の終わりを防ぐために何もしないまま、ライヴツイートやフォトボムをする3時間の長いアルトマン映画を想像してみるのもいいだろう。

…『ショート・カッツ』の直接の子孫である2つの作品。

『マグノリア』と『クラッシュ』は、どちらもロサンゼルスの …

…『マグノリア』は、プロローグで、偶然に結びついた3つの都市伝説を探ることで、偶然に対する魅力を確立しているが、この映画は、外部の力が私たちの人生に大きな役割を果たすという考えを堅持している。『マグノリア』のリッキー・ジェイ\語り手が『物事って偶然の重なり合いだよね … でも〔心境としては〕よくあることだなんて片付けられない』と言い続け、『クラッシュ』では、登場人物がしなければならない難しい選択の代わりに、外部の力の威力を支持し、人々の運命が絡み合っていると信じさせる。それに対して、アルトマンは、巡り合い〔𝙘𝙝𝙖𝙣𝙘𝙚〕や宿命〔𝙛𝙖𝙩𝙚〕、合致〔𝙘𝙤𝙞𝙣𝙘𝙞𝙙𝙚𝙣𝙘𝙚〕や幸運〔𝙡𝙪𝙘𝙠〕といった神秘的な力を、映画の背景となる街と同様に、その力を奪ってしまうのだ。その代わりに、アルトマンは登場人物に自分の人生に対する主導権を与えたのだ。

『ショート・カッツ』の中で、誰も何も学ばず、人生がより良く変化することもないと言ったら不誠実でしょう。しかし、私たちが手にするものはほとんど猶予である(〔より良い変化とはならず〕)。唯一の救いは、パン屋のビットカワー氏である。自分がかけた迷惑電話が、死んだ少年の遺族に届いたと聴いて、自分が意図した残酷さが、知らず知らずのうちに拡大されていることに気づく。彼がそれを理解するのは、ただ聴くだけでなく、母親の声に込められた痛みに耳を傾けることができたからである。聴くという行為の中で、彼は母親の痛みを聴き、それを自分の痛みであるかのように感じることができるのである」
🗞️
            🪨「忙しい … 」
    🪨「大丈夫 ?」
🪅

🛒「ダイジョウブカシラ?」   🧸「ダイジョウブ?? 」
    🪑「ブジカシラ?」
            🎎「シンパイ … ダイジョブ??? 」

    🪨🪅🛒🧸🪑🎎「言い続けようッ !!!!!!! 」

最後の最後にもう一言、二言、三言📇🧖🏻‍♀️
青春の軽薄さは捨て去った?これからは真面目に生きよう?ワケもわからず忙しい日々?オー・ノー。。。。トマス・ピンチョン ブリーディング・エッジの『マキシーン』とリンクする。年度末の忙しさと同様、一気にやってくる!!!中国女よ、税申告と春節と家庭崩壊に気をつけろ!!!!!!!!!てか『気』をつけてやれ!てかじっくりと『時間』を割いてやれ!《生》を『生きる』ためにも!!!!!!!!!
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