はまたに

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスのはまたにのレビュー・感想・評価

5.0
人生はせわしなく、マルチバースもまた、そう。

Filmarks含めレビューサイトの平均が芳しくないからテキト〜な気持ちで観に行ったら年間ベスト待ったなしだった。完全に油断してた。

物語は冒頭からイライラにイライラが募るような展開。常に何かに追い立てられて、焦って焦って爆発しそう。気が休まる暇もないのはマルチバース顕現後も変わることなく。だから前半はずっと忙しい。たぶん結構な数の人がこの段階で脱落したんじゃないかな。一体自分は何を見せられているんだという感覚。正直、体調とか機嫌がわるかったら自分もそうなったに違いない。今世の自分は大丈夫なユニバースにいるみたい。

主人公のエブリン。無神経に思える家族の行動に振り回されながらも自他を律する術はなく(古い家父長と優柔不断と反抗期と頑固な自分だもんな)、無遠慮に降りかかる宇宙の危機にもなす術はない。そもそも何がどうなっているのか、今の今まで、いや渦中の今なお家事と稼業と税金に追われている彼女には飲み込めない。

目の前の危機に対処するにはとにかく領収書を切るしかない。クリーニング屋にカラオケ機器の計上は怒られるが、マルチバースの世界ではもっと突飛な経費をでっちあげなくてはいけない。誤った経費を計上するとジャンプに失敗する。でも、クリーニング屋でありながら歌手だのなんだのと適当な言い訳をかましてきたエブリンには多少こなれていたのかもしれない(あるいはかすかに別次元の自分とつながっていたのかもしれない)。

発想力豊かな、とはいえひたすらB級なバトルは人を選びそうだが楽しく、なるほどこういうおもしろさなのねと理解が重なっていく。それがどっこい、後半はグザヴィエ・ドラン作品でも見てんのかと思うような母娘のぶつかり合い。え、泣かされるん? と思ったときにはもう時すでにベーグル。最終的にはくだらないすべて、荒唐無稽なすべてが愛おしく、おまえたち最高だぜと快哉を叫びたくなってしまっていた。ソーセージの手、好き。ディルドヌンチャク、好き。ラクーン操縦シェフ、好き。
ルールなんてないんだと擦り寄る岩エブリンには危うく嗚咽を漏らしそうだったほど。好き。

最終的にはナンセンスなあれこれが大団円のパーツをなしてくという、まあちょっと他に記憶にない映像体験でした。


こっからは余談。

この作品について保守的な価値観を擁護していると見る向きもあるみたいだけど、ぜんぜんそうじゃないと思う。家族愛を描いていると受け取ればそりゃ頑迷な家父長を含めて肯定しているように見えるかもしれないけど、あれは家族愛というよりはあらゆるものごとやあらゆる他者、もっと踏み込めばあらゆる自分に対する受容や尊重じゃないかと思う。あるいは、そこにある歓びではないかと思う。そこにいてもいいんだ、っていう。こんなんでもいいんだっていう。

すべてのユニバースを経験して辿りついたジョブ・トゥパキ(衣装とメイクマジかっこいい)の境地が不感と諦念なのだから、その対極にあるのは愛ではないと思う。もし愛だとしたら、その反対には憎しみがあるはず。でも、憎しみからベーグルを作ったわけじゃない。なんにもないからすべてをそこに乗っけたんだ。

一方のエブリンも、マルチバースにいる数多の自分を愛したわけじゃない。受け入れたんだ。何を見ても何も感じないの反対は、何を見ても何かを感じることだと思う。それを受容と表現したんですが、いかがですかね?(誰に対する何のお伺いだよ)

ぱっと見、家族愛って言いたくなりそな感じではあるけど、そう捉えると制作陣が意図してないであろう結論になっちゃう気がして思わず熱くなってしまった。まあ、広い意味でのおおらかな愛ってことで。というか、受容でも許容でも尊重でも鷹揚さでもなんでもいいんだけど、家族愛ってものより大きなアレなんだぞって言いたかったんですわ。

というか、今気づいたんだけど娘の名前ジョイじゃねーか! 歓びで正解だろ! 言祝ぐぞコノヤロー!

でもまあ、結局はマルチバースではあらゆる可能性は担保されるべきなんで、保守的な価値観の擁護者って結論でもオッケーです(←急に匙を投げる人)。

あ、でもこの作品を「エブエブ」って略すのだけはどこの世界線でも許されないからな! それだけは覚えておけ!
はまたに

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