開明獣

生きる LIVINGの開明獣のレビュー・感想・評価

生きる LIVING(2022年製作の映画)
5.0
英国の至宝、ビル・ナイが主演で、これまた英国が誇る叡智、ノーベル賞作家のカズオ・イシグロの脚本とあっては観ない訳にはいかない。イシグロは寡作な人で、長編は僅か現時点で8作しか書いておらず、全て翻訳で読むことが可能(うち7冊は文庫化)なので、全作制覇は夢ではない。

イシグロは長崎生まれの日本人を両親に持つ日系二世英国人であることは良く知られている。英国紙、ザ・ガーディアンのインタビューに答えて、英語はほぼ母国語に近いが、それでも散文を書く時はとりわけ慎重になると答えている。「日の名残り」などでも極めて格調高い英語を書いているイシグロだが、彼の文章はクーインズ・イングリッシュの典型でありながら読み易いのは、そのせいかもしれない。それは本作の脚本でも活かされると思う(残念ながら、字幕翻訳はフォーマットの制限上、そこまでのニュアンスは表れていないが)。戦後間もない英国での、四文字言葉の一切ない気品のある会話がとても美しい。

「すまないが、今日は3時にはあがらせてもらうよ」

というのを、

“I’m afraid that I’m obliged to leave at three”

なんて、アメリカ映画じゃ、まず聴くことの出来ない言い回しだ。こういうのが随所にある、耳のご馳走でもある。

また、同インタビューの中で興味深いのは、彼の小説の奥底にあるテーマは実はほぼ毎回常に同じで、全てがリメイクとなっていると答えていることだ。イシグロは、喪失感と、記憶の曖昧さから来る認識のずれを巧みに描く作家だ。本作にも随所にそれを観てとることが出来る。

主人公は仕事一筋に生きてきたが、その仕事の中身は決して人に自慢出来るようなものではない。息子夫婦ともすれ違いのままで、仕事への情熱も特にない中で、自らの死を宣告される。記憶の中の家族と実態とのずれ、今の生き方の中での喪失感をイシグロは巧に言語化していく。

本作を英国を舞台にすることに対しての危惧を持った評論家がいたと聞いたが杞憂のようだ。官僚主義: Bureaucracyは、世界中のどの社会システムにもある害悪だ。英国だけでなく、アフリカだろうが、南米であろうが、欧州だろうが、どこにでも顕在している。原作でクロサワが抽出したテーマは極めて普遍的なものなのである。

最後の有名な歌のシーンは、スコットランド民謡の「ナナカマドの木」が使われている。主人公は、最も楽しかった時期に歌ったであろう歌を唄う。

人間の尊厳と幸福という普遍的なテーマを今この時代に問うことは尊く意義のあるものだと思う。そしてそれはまた、クロサワの偉業を再認識することにもなる。

イシグロばかり称えてしまったが、ビル・ナイは勿論、他の俳優陣も素晴らしいし、オリバー・ハーマヌス監督の抑制の効いた演出も賛嘆に値するものだ。

生きづらい時代にこそ、生きる意味を問う。製作者のエールのようなメッセージをしかと受け取った気がした。
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