Oto

DEATH DAYSのOtoのレビュー・感想・評価

DEATH DAYS(2021年製作の映画)
3.9
2022.3.29
劇場にて2度目の鑑賞。メイキングドキュメンタリーとのセット上映で、監督のトークショー付き。

実は長久さんって自分にとってすごく大きな存在で、映画づくりに踏み切るきっかけをくれた人。今回も上映後にお話しさせていただいて、「死ぬかもしれない今日を生きている、death day"s"」という終わり方が広告的で好き、物語に閉じずに現実とつながっていると伝えたら、「たしかに広告を意識した手法で、シナリオの段階ではなかったものを加えた」とおっしゃっていた。
もっと適切に言語化すると「人を動かす力がある映画」だと感じたのかもしれない。ビジュアルブックの対談でも「生きていたい」と思ってもらいたくて作った、地べたに座って食べるコンビニのそばでも旨いとおもうことだってできる、と語っているけど、実際自分が観客として動かされている実感がある。全力で生きられていない実感が自分自身すごくあるので、パワーをもらいたくて劇場に行ったのかもしれない。

今泉さんとのSpace雑談で「この商品は広告すべきものなんだろうか?魅力的に伝えることが詐欺になるんじゃないのか?」とか考えちゃうくらい真面目な人間だと長久さん自身が言っていたけど、長久さんの映画はいつも「絶望」や「死」が前提としてある。両親を亡くした子供たち、生きながら死んでいる退屈な女子高生、死ぬ日が決められている世界の男...。そんな世界を"希望のある世界"と偽って描くのではなく、死ぬことなんかも含めてそのままの今を肯定して生きようぜ、というのが長久イズムだと思っている。そこにすごく勇気をもらえる。
藤井風が「明日なんか来ると思わずに燃えろ」と歌っていたり、監督自身が映画を撮り始めたきっかけがNature Danger Gangのライブに行って「生きてる!このままじゃだめだ!」と感じたことだったと言っているけど、自分にとってのそういう経験になっているのかもしれない。

その意味で「野性的」と言っても過言ではないような森田剛さんを主演に迎えて、生死がすごく近くにある作品として描くというのは非常に相性が良かったんだろうなと後から思った。逆オファーらしいけど通じる部分があったんだと思った。大根監督は「ピカレスク」と言っていてなるほど。
石橋静河さんもすごく魅力を引き出されていて、おちゃめだけどどこか触れられない領域を持っている感じとか、長久監督の「ハッピーオーラ全開だけどどんな人なのか全然わからない」印象と似ているなと思ったりする。山西監督も長久さんの印象を「パッショナルだけどそれが表に出てこない人、澄んだ落ち着いた目をしている」と言っていたし、劇中にも「冷静と情熱のあいだ」という言葉が引用されていた。

トークで質問させたいただいた参考作品について、『欲望』はテキストで先に会話作っているからあんまり意識していなかったとのことだったけど、部屋だけで撮ろうということは思っていて『ROOM』は意識していたらしい。リチャードリンクレーターは好きだけど、あちらはハンディカムだったり表現的に直接影響は受けていなくて、今作ではオマージュやサンプリングはあまりやっていないとのことだった。いつもはだいたい思い描いていて、『プー金』は大島渚の『日本春歌考』を女子4人でやりたいという発想だったとのこと。

子供じゃない大人の主人公を選んだのは『死なない憂国』が最初だったけど、今作でもモモの二人はほぼ子供みたいに描いているらしい。自身の精神年齢が13歳くらいで「カニ可愛いな」とか思って生きてるから、子供が書きやすいらしい。これは面白い話だなと思って、たしかに自分が描くキャラって、理屈っぽいけど理想主義で、内向的だけど好奇心旺盛で、みたいな主人公になりやすいと思う。
あと長久さんもたまにおっしゃっているけど、「芝居はリアルじゃないといけない、空間や美術は本物に見えないといけない」みたいな誰かが決めたルールに従ってしまう癖から自分を解放してあげないといけないなと思う。お笑いや音楽から力をもらえるのって「リアルだから」ではないし、なにかを諦めることで別の面白さがみつかることって多い。

1度目に本作をみたときも、一つの空間で進行しているということに気づかないくらいに飽きさせない映画だなと感じたけど、ショットの作り方とか画面にテキストとか反転した物体を重ねるみたいなことを自由自在にやっているだけじゃなくて、そもそも「現実で起こり得ないこと」がたくさん起こっていてその気持ちよさもあるなと思う。やっちゃいけないことないんだなというか、もっと自由でいいんだな、みたいな解放をしてくれる。
ご自身がサラリーマンという「映画を諦めた人生」からの死に物狂いの挑戦がデビュー作だったという話をしていたけど、その擬似体験をさせてもらっているような感覚がある。

どこから覗いてんねん、みたいな多様な視点のショットが多くて、おもちゃ箱を開けるような感覚があるのは、「神羅万象に魂や視点があると素で思っていて、主人公や物語を見守る存在として、世界において孤独じゃないから大丈夫だよと伝えたい」ということを仰っていたのも、アニミズムを研究していた自分と重なると感じた。
逆に何ものないところにカメラを置いたり、肩なめのショットとかあると気持ち悪くなっちゃうということを言っていて、自分が気持ちいいもの・気持ち悪いものへのセンサーがすごく敏感なんだなと思った。

好きな自分で生きられているか、好きな服を着ているか、好きな椅子に座っているか、好きなご飯を食べているか、好きな人と働いているか、そんなあらゆる自分の幸せに対して意識的になって生きていたいと思わせてくれる。
なにかを作ることの良さって、好きな人たちとつながれる、一緒に作ることができることがあるな〜と思った。

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(2022年1本目)

長久さんらしい広告的なメッセージのある映画。3話に分けているのも現代的だし、なぜ無料公開できるのか調べてたら、森田剛のPVとして撮っているからみたい。役者から愛される監督だ。

いつも通り、絵の面白さが先行した舞台のような絵画のような作品。映画学校でも、面白い絵を並べるくらいの感覚で撮った方が、辻褄の合ったストーリーより面白くなるよ、と言われたけど、たしかに急な逆さショットとかモノ視点とかなにか明確な意図があるというよりは、撮りたいという気持ちで存在しているような印象を受けた。

設定にも「DEATH DAY」という非現実的な魔法があるけど、いつの間にか受け入れて観られるし、しっかり緊張感あるのが、演出や撮影の力だなぁと。ハンディの画質荒いカメラ、ヤングカンヌでもやられてたけど、大林さんの影響かな。監督もこんなこと言ってたけど、映画って自由でいいんだよ!って教えてくれるような作品。
https://twitter.com/nagahisa/status/1248896872359460865?s=21

1話。右往左往するバンド名の会議ショットが好き。それっぽいロゴが入るのもいい。中華卓とか会議とか漫才とか麻雀とかで応用できそうだけど、やっぱり絵に変換できるかが全てだなぁと。
https://twitter.com/hirockyhorahora/status/1340068088058765312?s=21

テレビ画面に空想が映るのも『偶然と想像』でもあったけど好き。長久作品、絶望した後にバンド組みがち。空間が限られた室内劇では、画面とか窓とか扉とか、想像を広げさせる枠の使い方が大事。高橋洋はホラーに使うけど、ミュージカルとかコメディも相性いいなー。

2話。セリフが面白い。「ラリーだから、ラリークラークだから。あ、久しぶりにケンパーク見たい。ネトフリにないよね。ツタヤ行くか。ツタヤ行こう。スタバない系のツタヤ行こ。五反田のツタヤ行こ。戸越のGEOでも可!」めちゃいいな。監督の言いたいことを言わせてるような。結婚式の後はまるで企画会議の打ち合わせのようなテンション。

ゴミクズで倒れる瓶のボーリング、物理現象の無視は映像ならではの魔法。卓球はアントニオーニの『欲望』のテニスを思い出した。どうしてカメラで見えないボールを追わなかったのかは気になるけど、映画誕生期の首の切断から変わってない。
火災の後の割れたガラスで縁取られた画面設計が素晴らしいのと、瀕死状態の赤い背景も印象的。

3話。30階から飛び降りても死ねないのかな?みたいな破綻は感じてたけど、オチで回収されてスッキリした。走馬灯のくだりは少し長く感じたけど。

ASMRのようないつにも増して音への気遣いが徹底されていたけど、死んでなーい♪も耳に残るしいいな。

今作も「生きろ!」がメッセージで長久さんのハッピーオーラがすごく反映されてると感じた。「死ぬかもしれない今日を生きている、death day"s"」という終わり方がコピーが効果的で良い。死ぬから逆に。
扉を開く瞬間の恐怖感が伝わったけど、深夜にコンビニ行くとき少し怖いしわかるなぁと思う。死ぬと思えば頑張れる、は『生きる』とつながるテーマで自分にとっても切実。

ゾンビーズもだけど、この人の作品が興行的にうまくいかないの世知辛いな...。

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監督インタビュー

・企画としてDEATH DAYSはストックしていたので2週間くらいで第1稿を秋ごろに持って行った。撮影が11月半ばで超ハイスピード。12月末の話を書いてしまったのですぐ撮影。
・ホームで突き落とされるかも、トラックに轢かれるかも、最後に聞く曲これ?みたいな意識は学生の頃からずっとあった。今までは結果として生きるだったけどもっと直接的に。小学生の時タワマンの15Fにいて飛び降りたらいつでも死んじゃう恐怖があった。上の人が落ちるのを母親が見たり近所でもそういう事件があった。死が身近にあった。
・長髪に髭の俺は自画像に近い、切り離したいけど40歳も自分に近い作家として描いた。安定した社会的地位。本当はもっとボロボロで描きたいけど、それに反抗するつもりで芋洗坂のストリートで蕎麦があった。自分の許せない部分。
・フランス文学科卒としてカミュ的な主題の見直しがある。前作は三島由紀夫的な見直し。時代がそうせざるをえない部分があり、平和からコロナや戦争になって、死ぬべきであるとかを否定したい。ボロボロで発声しかできない、ポップソングよりも切羽詰まった状態。死んじゃダメだとは言えなくて、結果死んでなくてよかったくらい。輝かしい未来があるとは言い切れないけど、蕎麦がまずくて幸せ。
・消えちゃう病という舞台が延期になったときに、三島原作でヨーロッパの方が来日できなくなったので作品を好きに選んでいいと言われて、求められているのは金閣寺をポップにとか思ったけど、読み込むほど今描くのはアンチ憂国だと感じた。脚本はいつも衝動的に描いて、後から揉み込む。短期間で書けるくらいの衝動。三島は基礎知識で読んでいたくらい、お仕事もらってから歴史を辿ったくらい。実存主義的文脈の影響として、どうせ死ぬから人生に意味はない、をどうひっくり返すかという直系・市民運動に近い。

・キャスティング能力には自身がある。M-1の2回戦のタイミングでモモを選べたり数年前からファンだった。面識はなかったのでドッキリと思われたくらい。
・バンドを組む感覚で本当に読んでいる。声とかテンポ感としてパート編成を決めている。ひみさんはマイペース、前原さんは上手いからがっしりとか。脚本の時点ではあんまりイメージはなかった。モモはめちゃ上手でびっくりした。
・ダツは撮影した後に『リリィシュシュ』を思い出した。河内のおじさん役は同級生の映画マニアで指摘された。生き物の小ネタが好きで、タコとかいろいろストックしている。習性には神様がノリで決めた変なものがたくさんある。Twitterで動物情報のリスト作っていたり。
・ほぐし水は重要アイテムでストックしていた。10年前に秋元康とお仕事した時にほぐし水の歌詞を持ち込んだことがあるくらい。用途が明確で面白い。
・バンドを組むのは理想の行動だけど結局組まないのが現実、そこも自伝。ゾンビーズも同様。前回はシャックスだけど、スーパーオーガニズムとか遊びの延長で音楽はソリッドとか、トモフスキー的な哲学をカジュアルに日常に下ろす感じとか。リラックスしつつ既存の価値観に中指を立てる感覚。せめるがゲームコントローラー持っていたり、ラブスプレッドオマージュもあるし、せめるはヒカリのパラレルな未来と思って髪型を寄せている。
・コンテはファーストカットがろうそくの寄りで、武田さんからゾンビーズの煙突と一緒だと指摘された。でも編集時にソリッドすぎるので変えた。肉体的な感覚を差し出している。
・明るい曲の方が悲しくなるからそれを選ぶ。死の話なのにカリプソを当てるという生理。ハネケの影響もあって、悲しいシーンで明るいテレビが流れてきたり。もちろん設計もあるけど感覚的。
・それぞれのDEATH DAYは季節感とかでランダムに選んでいるけど、その中に自分と同じ誕生日の人が二人いる。責任を負える気がした。

・石橋さんもはじめまして。芝居も好きだし、チェルフィッチュのザハとか、ダンスとかフィジカルな表現も好き。森田さんも違う舞台を見ていた。
・話しているだけなのに情報量が多い。金魚でボーリングはあるけど、卓球は学生の頃にやっていたくらい。ケンパークは、シュールレアリズム的な自動筆記の概念が、衝動的な脚本に近い。普段の会話ってそれに似ている。これもフランスが源泉。
・アドトラックの俺の風。ループ音源のYouTubeを作業BGMにしているくらい。なんでもないものに情感を見出す才能。両親がいない中で暇をつぶす術だった。
・6.11は9.11に近いイメージと、ジューンブライドのイメージ。連想させすぎないようにニュアンスとして。
・不協和音の結婚行進曲は血塗られたメンデルスゾーンのような。教会でとったけど、映画館でも同じ位置でマイクを再現。鳴りはパイプオルガニストにこんな奏法があるよと教えてくれた。

・感情のチューニングの演出、もう少し楽しい感じ抜いてみましょうか、というメイキングがあったけど、森田さんはちょっとストレスに感じたりもして、思想まで伝えれば良かったと思っている。石橋さんも難しがっていた。感情の目盛りを調整している。日常では伝えられる器用な人間ってそんなにいないので、プロポーズでも伝えすぎないように。
・リアルだけど完全にフィクション。寓話として仕上げているけど感情は生のもの。でも自分が目指すプランからはみ出していく感覚も面白い、書いた楽譜をどう演奏してもらうか。前だったら採用しなかったものも舞台を通して採用するようになったり。
・感情は音で出る部分が多くて音楽的発想がある、ダビング室でも0.5dB下げたいとかをめっちゃやってる。やだなのすれすれを攻めたり。
・撮影期間は黒澤フィルムの東名川崎スタジオ。こんなに疲労したことがない。本当は6日欲しいし、カット割の1/3くらいは現場で諦めている。ゾンビーズもそうだった。むしろ良くなることを現場で探す。武田さんと笑いながら探る。シナリオを読めるカメラマン、カットを意味で決めている。肩なめを許せないのも意味がないから。血を出しながら作っている映画じゃないとダメだと思っている。スタッフのために徹夜はしていなかったり食事もしっかりしている。
・現場では声がすごい出ている。営業として現場が滞るのが嫌い。みんなが動きやすいようにしたいし士気をつくっている。

・子供の頃はただ生きてたじゃん、あの少年はいるかいないかわからない神様の感覚もあるし、過去の自分とかもある、自分が無意識に言って欲しい理想のミックス。ゼロ年代全景から、キリスト教とか神のモチーフ・寓話の輪郭はずっとある。神がいるならふざけてるだろうなって思っている。キリンの形とか。うがった信仰として奇妙な生き物にひかれる、神へのツッコミ。
・ちょっと未来まで描いている、最初はフィクションというかただの未来として描いていたけど、森田さんが42歳だしほぼ現在として描きたかった。同世代性が効いている。死をやりたいと言っていた森田さんのアイデアはもともとあった。伝えれなさに関しては自分は違うと言っていたけど、本当の森田さんとの境界を曖昧にしたかった。
・髭剃る関係で、芋洗坂も合間に撮影。4日で撮ってるのはVシネくらいだと思う。本当はいろんな場所で撮りたいけど、コロナもあって部屋だけでとるアイデアにしたし、外に出るのは気持ちよかった。実際は2テイク撮っていて、車も止めている。
・祝祭的な終わらせ方は、悩んでいた。カット割って車に轢かれそうになるとかもあると思ったけど、土壇場で希望を選んだ。自然に書いたのは悲観的なものだったけど、その自分をロジカルな自分が止めた。
・生きづらさ、のうのうと生きてんじゃねえよという三島的な思いはある。なかには熱くて激しいものがある。美しさを求めてしまうけど、反三島もある。共鳴性が高い。

・はじめは配信だけで劇場公開できたらいいけど調整の余裕もなかったけど、森田さんからはYouTubeであげたいというオファーがあって、出来上がった後に1本で検証してみても良かったので、知り合いのつてでシネクイントにお願いしたり。ゾンビーズと同じ。48分だと短いのでメイキングもあって、そもそもぼんやりとした算段はあった。
・反響として生きようと思ったみたいなツイートが多かった。機能としてダイレクトに伝わった。一番ストレートな機能芸術。
・次作は延期になった舞台をもっと現実の世界に落とし込んだもの。ラブストーリーは書けないけど、その先にある人間としてどう信頼を築いて壊すかみたいなもの。
Oto

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