”数学は楽譜だ。読めても意味がない。君には音楽が聴こえるか?”
この映画自体が「楽譜のような映画」だと感じた。
一つ目の理由は、単純に音が主役の映画だから。
劇場だからこそ体験できる無音と衝撃波。
IMAXなのに会話劇かよ?と思ったけど、
劇場でしか体感できない音がたしかにあった。
見せ場とも見える、惨劇を想像してしまうスピーチシーン。
ずっとなんだ?って聴いていた足踏みの音も相まって凄まじい。
歓喜と対照的な罪悪感は「対位法」的。
二つ目は、考えるのではなく感じる映画だから。
交錯するノンリニアな時系列、大量の登場人物…。
これらをすべて読み解こうとすると付いていけないし、
考察を望んで作られているわけではない。
(自分も実際、1度目はそのように臨んでほぼ爆睡した)
むしろ些末な情報は気にせず、字幕を少しくらい見逃しても、
映画のリズムに乗っていった方が楽しめる。
二度目の鑑賞で気づいたけれど、序盤から意外と伏線がある。
毒林檎は、明らかに原爆のオマージュだし、
サンスクリッド後の「私は死になった」もそう。
だけど、一度目でこんなことはわからない。
後から効いてはくるものの、
本筋には直接寄与しない共産党関連の描写なども多い。
「映画はコンテンツではないアートだ」と監督はいうけど、
成熟してどんどんアート性が高まってきているように感じる。
ジョーダンピールにおける『NOPE』のような。
ノーラン自身が、『フォロウィング』のメイキングで、
「フィルムノワールは、感情ではなく行動を描くのが面白い」
という話をしていたけど、この映画はそれと対照的。
会話のばかりでほとんど人や感情が描写されない。
だから、自分はすごく眠たくなってしまった。
一方で、キティが育児放棄するあたりとかは人が感じられて面白い。
隣人の「君は住んでいる世界より先を見ているから犠牲が必要だ」とか印象的。
自分が人に与える印象もこういうことなのかなって反省した。
量子力学者は「身体を通過するのを止めてくれ」みたいな口説き方するんだな〜とか、
取調室で行為に及ぶような幻覚を見たりとかも、人間が出ていて面白かった。
結局は、好奇心に負けて身の回りを不幸にする人間が、
世界も不幸にしたという物語だったけれど、感情があまり見えない。
その点では、ストロールズは魅力的なキャラクター。
モーツァルトに嫉妬するサリエリが元ネタだと聞いた。
この映画の発想は、
「どうして世界が滅ぶ可能性があるようなものを作ってしまうのか?」
ということにあったと聞いたけど、
町山さんが「黒板で独自理論を説明する姿」を見て、
オッペンハイマー=ノーランだ
という解説をしていて面白かった。
自分の頭の中の絵を実現することに囚われてしまって、
他のことは見えなくなってしまう生き物が、
映画監督であり理論物理学者。
「我々は作っただけ、それを使うかは別の判断だ」
という言い訳をひたすらしていたけど、
これが罪深いな〜と感じた。
AIに関しても同じだけど、人間はあるものは使うので、
作る人には責任が伴うよなぁと感じた。
正直、自分にも敗戦国としての意識は普段はほぼなく、
歴史への興味も薄い方なので実感が伴わないところはあったけど、
広島や長崎という言葉が出てくると流石に身構えた。
そういう意味では、日本人こそ観るべき映画であったと思う。
でも正直苦手寄りな映画だった。
水爆の父親が『博士の異常な愛情』の元ネタだと聞いて、
そちらは未見なので見たい。
まだまだわからないことだらけだけど、好きだったセリフは、
「シーツを入れて」→「シーツを中に入れるな」の天丼。
詳しい感想は、Podcastで語りました。
https://open.spotify.com/episode/2Ym5PDvyXhUT0RcWuQZiEE?si=fdfa8fb8ee6c4d5b