ベイビー

インランド・エンパイアのベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

インランド・エンパイア(2006年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

「難解なメビウスの輪」

この映画はデイヴィッド・リンチの作品史上、最も難解な作品だと思います。僕は“リンチ好き”を公言している身として、自分なりにこの作品のことを上手く理解しようと考察を試みたのですが、やはり3時間の長尺と登場人物の多さに思考の巡りが及ばす、考え続けるうちに精も根も尽き果ててしまい途中で断念してしまいました。

それでも自分の中で少し分かったこともありましたので、その考察を書き記しておきます。

この映画は「ロストハイウェイ」と「マルホランドドライブ」と「ツインピークス」を掛け合わせたような作品で、ストーリーの中にいくつもの表と裏の世界観が散りばめられており、それらがメビウスの輪となって、表の世界と裏の世界が入り乱れている。簡単に言ってしまえば本作はそんな作品で、その根拠は全て冒頭の約19分間で説明されています。

物語の冒頭、映写機から光が放たれ「Inland Empire」というタイトルが浮かび上がります。そして、回転するレコードからラジオ放送の声が聞こえ「今夜も“ある冬の曇り日と古いホテル”をどうぞ」と、最も歴史のある曲としてこのタイトルが紹介されます。

その後画面はモノクロームの質感を保ったまま、場面をモザイクがかかった娼婦と客の男女が居るシーンへと移行させていきます。その二人の性行為が終わると娼婦は一人になり、ベッドの上で顔を覆いながら泣いています。それから映像はカラーとなり、同じ部屋でモザイクがとれた裸の女が砂嵐のテレビ画面を観ながら泣いています。この世界観を仮にAとします。

次にウサギ人間たちが現れ、辻褄の合わない会話を繰り返し、男のウサギがドアを開け部屋から出た後忽然と姿を消します。それから画面が明るくなり、突然現れた二人の異国の男たちが“入口”の話をしてすぐに消えてしまいます。

その後またシーンは変わり、緑色の服のおばさんが「近所に越してきた」という理由で、ニッキーの家を訪ねにきます。緑色の服のおばさんはニッキーに、誰も知らない映画の配役のこと、訳の分からぬ請求書のこと、映画の中の殺人のことをペラペラと喋り出し、ニッキーは混乱します。

さらに緑色の服のおばさんは「今が思い出なのか昨日なのか明日なのか分からない」「行動には必ず結果が伴う」と言い、「もし明日なら、あなたはあそこに座っているでしょう」と訳の分からぬことを言って、ソファを指さします。ここまでの世界観を仮にBとします…

これまでの話をまとめると、Aの娼婦は何らかの悲しみ、または苦しみを理由に、泣きながらテレビを見ています。その時観ているテレビにはしっかりと緑色の服のおばさんが映っているので、AとBは別の世界観だと認識できます。さらに続けて言えば、Aの娼婦がニッキーの居るBという世界線を観ている。という、そんな構図が成り立ちます。

よく人の人生を一本の映画に例えられることがあります。その人生というフィルムの端と端をハサミで切り取り、メビウスの輪のように過去と未来を繋げたなら、永遠に続くループの中で未来が過去に繋がり、過去が未来に繋がっていきます。

緑色の服のおばさんが言う「今が思い出なのか昨日なのか明日なのか分からない」という言葉は、昨日の端と明日の端がメビウスの輪のように繋がっていることを意味し、同時にメビウスの輪の面には、表(今・現状)と裏(思い出・違う世界)が存在するわけですから、未来と過去が捻れてくっつくことにより、表の世界と裏の世界が複雑に絡み合うことになります。

冒頭で出てきた映写機の光は、この作品が泣いている娼婦の人生を一本のフィルムとして投写している事を意味し、レコードのラジオ放送が紹介した「今夜も“ある冬の曇り日と古いホテル”をどうぞ」というタイトルは、娼婦の人生を物語るタイトルを称したのだと考えられます。

また、冒頭で示された映写機と蓄音機が他に意味するものは、モノクロのフィルムはネガとポジ、レコード盤はA面とB面。すなわち人生には表と裏がある事を意味しており、ウサギの男が消えた部屋に現れた二人の男が言っていた“入口が見当たらない”話とは、表の世界と裏の世界の端と端が継ぎ目もなく繋がってしまい、メビウスの輪のように無限に繋がってしまったので、入口も出口も見当たらないと口論していたのではたいでしょうか。

つまりこの物語は、人生を嘆く女が自分の不幸な人生を逆転させるため、自分の人生のフィルムをメビウスのように繋げてしまった話ではないでしょうか。自分の不幸から逃げ出そうと現実と別世界を繋げてしまった女が、メビウスの輪の如く入口も出口も存在しない永遠に繋がるループを彷徨い続ける物語だと思うのです。

Aの女性は娼婦として生きている自分の人生を嘆き、泣きだすほど惨めな現実から救いを求めるため、ウサギ人間たちを想像したのではないでしょうか。彼女は想像の中で自分の裏の世界を作り「不思議の国のアリス」さながらウサギを追いかけるようにして、惨めな現実とは対照的なハリウッドセレブの世界観に逃げ出したかったのではないでしょうか。

しかし緑色の服のおばさんが助言した「行動には必ず結果が伴う」というように、いくら現実から逃げてもメビウスの輪を進んで行けば、結局元の場所にもどり、行動に対する結果を受け止めなければなりません…

大体ここまでは理解したつもりなのですが、この映画が難解なのは、メビウスの表裏と過去と未来がいくつもあるということです。

例えば、先ほどの話のAとBの世界観、テレビを見ている方と映っている方、現実と映画、ネガとポジ、A面とB面、過去に完成されなかった映画とリメイクされた映画、富豪とサーカス団、ハリウッドとポーランド、赤と青の部屋、赤と青の照明、昨日と明日、女優と娼婦、金髪の自分と黒髪の自分、穴の開いたシルクの布を覗く方と穴の向こう側の世界、赤いカーテンのこちら側と向こう側…

「ツイン・ピークス」では、赤いカーテンの向こうがブラックロッジの入口でした。そして「インランドエンパイア」では、ニッキーが赤いカーテンを抜けたあと(ツインピークスもインランドエンパイアも形の違いはありますが、白と黒の波型の床が見えます)、会えるはずもない別世界にいるはずのAの泣く女と出会ってしまいます。そして二人はキスをしてニッキーは消えてしまいます。

それは、B面の終わりとA面の始まりが繋がったことを意味し、物語がループすることも意味します。それを考えると、エンディングに登場する緑色の服のおばさんを含む、現実離れした怪しい人たちはブラックロッジの住人とも言えますし、この映画で言えば「インランドエンパイア」“内なる帝国”の住人と言えるのかも知れません。

たくさん散りばめられた、会話にならない言葉を読解して、それぞれのメビウスの輪に当てはめる作業は困難であり、その作業自体無意味なのかも知れません。

ただ、僕が知りたいのは、最後にAの泣く女とBのニッキーが出会う前、ニッキーが銃弾を向けたのは誰だったのでしょうか? あの恐ろしく醜い顔の正体はなんだったのでしょうか? 何かお分かりになられる方は是非ご教示ください。
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