開明獣

帰れない山の開明獣のレビュー・感想・評価

帰れない山(2022年製作の映画)
5.0
これは山に魅入られたある男の魂の遍歴の物語。

イタリア最高権威の文学賞、ストレーガ賞受賞の原作は、須賀敦子氏の衣鉢を継いだイタリア文学翻訳の権威である関口英子氏が訳を手がけたとあって、秀逸な海外小説の紹介で知られる新潮クレストブックから出版されてすぐに読んでいる。その時は、「これは是非映像化して欲しい」と思ったものだ。

イタリアは、流石、「神曲」を著したダンテの国というべきか、ノーベル賞受賞者の6人中、カジモドやモンターレなど、半分の3人が詩人なのである。対して小説は、戦中は「シチリアでの会話」のヴィットリーニや、「夏の日」のパヴェーゼに代表されるネオ・レアリズモが主流だったのが、戦後になって、ポストモダンの作家、「周期率」のプリモ・レーヴィ、「冬の夜ひとりの旅人が」のイタロ・カルヴィーノ、「タタール人の砂漠」のディーノ・ブッツァーティ、らが主流となった。「薔薇の名前」のウンベルト・エーコや、「インド夜想曲」のアントニオ・タブッキは、その後に活躍した現代作家だ。本作の原作者のパオロ・コニェッテイは、「素数たちの孤独」で名を馳せたパオロ・ジョルダーノと並んでまさに今現在のイタリア文壇を牽引する柱としての存在が期待されているが、実はこの「帰れない山」が長編としては初なのである。錚々たるイタリア文学史に名を残す名作家の系譜に名を連ねる作家であることは間違いない。

コニェッテイは、ヘミングウェイやレイモンド・カーヴァーを好んでいて、とても硬質な文体で直截な描写が特徴なのだが、自然の風景の筆致などはとても素晴らしく、読んでいて情景が目に浮かぶようである。

原作の方が、勿論、濃密に主人公ピエトロの家族の問題や、親友であるブルーノの家族の問題に触れているが、この映像作品は大事なエッセンスだけをうまく取捨選択しており、見事な映像化だと思う。

原題は、「8つの山」。翻訳をした関口氏が名付けた邦題の「帰れない山」は邦題命名の珠玉の一品と言ってもいいほどの素晴らしいもの。字幕も関口氏なので、安心して観ていられた。

自分は登山をしないので、想像でしかなかった、ヒマラヤやモンテ・ローザの山の情景や、山小屋などが実際に目に映ってくると、感慨もひとしおであった。

旅をするものと、定点から動かぬものと。人はいつも心のどこかに微かな傷みを感じながらも、切々と生きていくものなのかもしれない。鑑賞後には、透き通った渓流の水のように、清冽な感動に浸ることが出来た。
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