lotus

SHE SAID/シー・セッド その名を暴けのlotusのレビュー・感想・評価

4.0
この映画は映画ではあるが、事実を元にしており、その事実は一段落ついた過去の出来事ではなく、現在も続いている出来事だ。

女優のアシュレイ•ジャッドが本人役として出演し、映画と現実の結節点になっている部分も含めて、「フィクションである」と言い切ってしまうことができない映画だ。

元になっている事実とは、映画プロデューサーのハーヴェイ•ワインスタインの過去数十年にわたる性的暴行とその隠蔽。それをニューヨークタイムスの記者2人、カンターとトゥーイーが何人もの被害者に取材し、記事にするまでだ。

記事にすると言ってもそう簡単ではない。証言者を確保することが極めて難しいのだ。

仕事を無くすかもしれない、あらぬ誹謗中傷を受けるかもしれない、そもそも、NDA(秘密保持契約)を結ばされてしまって、永久に沈黙を強いられているケースも多い。
匿名の情報は集まるが、出所を明確に示せる情報がないのでなかなか記事にできない。

そもそも、この一連の事件は当初軽視されていた節があり、ある女性はこの件を以前記者に話した時、小さい記事がスタイル欄に載っただけだった、と怒る場面がある。つまり、社会的な事件としては見なされず、ファッション•芸能界で起きたちょっとした騒ぎ、ゴシップとして扱われたのだろう。

ちょっとした諍いなどではなく、実際は何人もの女性たちの未来、尊厳を奪い、長く沈黙の暗闇に押し込めた事件だ。

冒頭に、とある映画現場で仕事を始めたばかりの若い女性が出てくる。先輩のアドバイスを熱心に聞く顔にはまだ幼さが残っている。(おそらく20歳少し出たくらい)
他のスタッフと一緒に重い機材を持って坂道を登るのは大変そうだが、これから彼女の前に広がっていく未来を感じさせるシーンだ。

だが場面が一転して、涙に濡れて歪んだ彼女の顔が映る。都市の大通りを必死に走っており、手にはコートと鞄を掴んでいる。何かから逃げている。
観客はたちどころに、何かよくないことが起こったのだ知る。彼女の人生をズタズタにするようなことが起こったのだと。

この映画では、性的暴行を直接映したシーンは一切出てこない。ワインスタインの姿も後ろ姿と声だけだ。主に被害者たちの苦痛に満ちた語りを通して、何が起こったのかを知る。
一つだけ、直接的と言えるシーンがあって、警察の囮捜査で録音されたテープがそのまま数分にわたって流されるシーンがある。

そのシーンを私は映画館で見ていたわけだが、その数分は悪夢のように長く、永遠に終わらないように感じられた。気分が悪くなった。

スクリーンにはワインスタインが常宿にしていたホテルの廊下だけが延々と映る。
女性は何度も何度も、こんなことは嫌だ、と抵抗するが、ワインスタインは反論の機会を与えないため、畳み掛けるように言葉をかぶせる。大したことじゃない、ちょっとだけだ、妻と子供に誓う、とまで言う。

仕事をする中で、大したことじゃない、それも仕事のうちだ、対応できないほうがプロじゃない、と思わされるのは映画業界に限った話ではないだろう。

この尊厳を削られる過程を経験したり目にしたりすることは日常風景としてあるから、映画の中の話と割り切ることが難しくなる。

トゥーイーの言葉にもある通り、このような被害に遭うのはハリウッド関係者に限らない。女性の仕事を矮小化し、女性を性的対象にしか見ないというのは一般の世界にもあることだ。

被害の後の暗闇を彼女たちがどのように生きてきたのか、カンターとトゥーイーの取材を通して少しずつ明らかにされる。

しかし、実態が明らかになってきても、記事にできる見通しはなかなか立たない。誰もが名前を出しての告発はできない、と躊躇うからだ。

その恐れは真っ当だ。ワインスタインは映画界全体を仕切る大物で、弱いものを黙らせるに十分な金と権力がある。やり手の弁護士を雇うことだって、気に食わない奴の動向を調べさせるためスパイを放つことだってできる。

しかし、それでも黙らなかった人たちが、今自分にできることを最大限に行い、勇気を示し、闘ったことで現実が動き、その後#Metoo運動として大きなうねりになっていった。
実名での告発を許可したアシュレイ・ジャッドや、ローラ・マッデンが流れを決定づけたのは確かだが、他にも多くの人がこのままではいけないと決心して、できる限り最大限のことをしたからこそ、その後大きなうねりになった。

彼女たちの勇気、正しいことをするのだ、という決心がなければ、記事にはならなかった。いくつもの声が逃れようのない事実として束ねられ記事になり、世に送り出されて波及していった。

無関心でいないこと、声を上げること、連帯することで現実を動かしていくことができる過程を見せてくれる映画だ。

もう一つ、いいな、と思ったのがニューヨークタイムスの雰囲気だ。
スタッフたちは、程よい人間関係、自然な信頼関係の上で仕事が出来ている。

ちょっとしたシーンだが、スタッフ同士が挨拶を交わしたり、カンターとトゥーイーの洋服がかぶってしまった時に双子みたいね、と言い合えたりと、コミュニケーションがストレスフルなものではなく、信頼を前提として成り立っているのがさりげなく示される。

トゥーイーとカンターの上司である編集長のバケットは、2人が困っていることを察知すれば間髪おかず助け舟を出すし、ここから先は任せて大丈夫だと確認できれば、2人のことをプロとして信頼し、余計な手助けはしない。(理想の上司、No. 1に選ばれてもいいのでは)

他の上司もさりげない気遣いがうまい。編集局次長のコーベットは、産休明けのトゥーイーに過剰な配慮(大変でしょ、と仕事を剥がしすぎる)はしない。
連日遅くまで働いている時は、あとは私が引き受けるから、と言う。(こちらも理想の管理職だ)

クライマックスの記事の仕上げシーンで、ワインスタイン発言の引用箇所を選ぶ際にカンターが「さすがレベッカね」と上司に言うのだが、彼らにごく自然な信頼関係があり、プロの仕事への敬意があることがわかる。

記事をオンラインに上げる前に、編集局長が最後にもう一度全文チェックしよう、と言って、全員で読み直す。
この作業自体はどの記事であってもされるものだと思うが、緊張感が伝わってくる。

メインで書いたトゥーイー、カンターを含め、それぞれが静かな声でOKを出す。
この記事を世に出すことの重みが伝わってくるシーンだ。

映画は全体として派手なところはなく、それぞれのシーンやエピソードが淡々と積み上げられていく。
でも、踏みつけられ、脅され、出口がないように見えても、それぞれが自分の人生を誠実に生きようとする様は見どころだと思う。

特に、騒ぎ立てず黙っているのが一番賢い、とでもいうような昨今の風潮の中ではとりわけそう思う。

沈黙したからといって、それはなかったことにはならない。
沈黙に押し込まれ、言葉を奪われることの苦しさ、そして自分の言葉を取り戻すことが自分の人生を取り戻すことにつながることを、この映画ははっきりと示している。

蛇足だけど最後に紹介したいエピソードを一つ。トゥーイー、カンター、コーベット(つまり、女性3人)が仕事の話をパブでしている時に、男が俺たちと楽しもうぜ!と割り込むシーン。

仕事の話をしてるから、と断ってもしつこく割り込もうとしてくる男に、ふざけんな(Fuck you!)いい加減にしろバカ!とトゥーイーが大声で怒鳴るシーンがある。(なお、男は大声で怒鳴り返されるとは思っていなかった様子で、戸惑った様子で引き下がる。普通、仕事の話をしてる時にヘラヘラ笑ってしつこくされたら怒って当然だと思う)
lotus

lotus