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エリザベート 1878のlotusのレビュー・感想・評価

エリザベート 1878(2022年製作の映画)
3.5
若く美しい、という言葉は賞賛ともなるが呪いともなる。

主人公は、ヨーロッパ宮廷随一と言われた美貌を持つ、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后、エリザベート。

この映画では、ちょうど40歳になる前後1年間を描いている。

「若く美しくある」ということが、エリザベートの主な仕事だ。変わらぬ美がハプスブルクの繁栄と安定を象徴するこらだ。
そのために運動や入浴、薄いスープや薄く切ったフルーツのみの食事を自らに課し、人前に出る時は極限までコルセットを締め上げ、ふくらはぎあたりまであるロングヘアを結いあげる。

儀式の場に人々は、エリザベートが噂に違わぬ美しさなのか、年をとりどの程度衰えたのか、無邪気な意地悪い好奇心で見にやってくる。

少年合唱団は美しいハーモニーで、「永久に麗しくあれ」と褒め称える。
しかし、聞かされる方にしてみれば、呪いの言葉にしか聞こえない。

国王ヨーゼフも、妻にとにかく美しくあることを求める。皇后の美しさが、終わりに近づきつつある王政への支持を長らえさせると信じるからだ。

40歳の誕生日にろうそくの灯ったケーキが運び込まれ、火を消すよう言われ吹き消して行く。すると、「20歳のような若々しい息ね」と褒め言葉がかけられる。
一体どんな冗談なのだろう。

小国でのびのびと育ち、自由を愛するシシィには、オーストリア宮廷が息苦しくて仕方がない。自由の領域を少しでも広げようと、乗馬や旅行に慰めを見出そうとする。

ある日、式典に出席しなければならない時、侍女にコルセットをつけさせ、レース付きの帽子を被せ、代役としてこっそり出席させる。
侍女は暑い中、極限まで締められたコルセットに耐えられず、中へ引っ込むと吐き戻す。
若く美しくあるための努力は、並大抵の人には耐えられない。

それほどの苦痛に耐えたのにも関わらず、折り合いは悪いが愛する娘からは、今日のお母様は威厳があったから絵にしたの、と紙を手渡される。その絵に描かれているのが母ではないことを娘は知らない。

精神病院に傷病兵を娘と見舞った時、若い傷病兵(おそらく、長くはなさそう)に煙草を求められ、ベッドの上で横並びになり、一緒に一服喫う。

皇后エリザベートの行動が、国のために戦い傷ついた若い兵士にとってどのような意味を持つか明らかだが、幼い娘には恥ずかしい行いにしか見えない。(余談だが、このエリザベートの行動は、ダイアナ妃を思わせた。彼女も権威主義とは離れた自由な精神で人に憐れみをかける人だった)

エリザベートの「若く美しくあろう」とする努力や忍耐は報われない。どれだけ努力しても歳をとることは避けられないというのに、その努力は理解して欲しい人には届かないのだ。

終盤、エリザベートは長く美しい髪を短く切り落とすが、若い侍女はそれを見て泣き出す。エリザベートの美の象徴である長い髪を美しく結い上げることが彼女の生きがいだってのだ。

美や若さに囚われることの滑稽さが描かれているが、これは何も皇后エリザベートに限った話ではなく、相変わらず女性たちは「若く美しくあれ」と、周囲の人間から呪いがかけられる。
女性たちも、その声に応えて、自分の美への追求、努力をやめられない。成果が出ることはよいことだし、美しくなれば自信がつく。

呪いの言葉が賞賛の言葉として聞こえる時、もはや呪いの言葉からは逃れがたくなる。

それでも、呪いの言葉はいつも重苦しい。自分で選び、努力していることでも、言いようのない重苦しさを感じてしまう。

エリザベートはそういった重苦しさから逃れようと、何度も試みる。ほとんど命をかけてまで。

画面は終始薄暗い感じだが、エリザベートが宙に身を投げ出す時、観客も自由を感じてしまう。
確かにエリザベートは美と若さに執着せざるを得なかったが、彼女が本当に求めたのは自由ではなかったか。

ロミー•シュナイダーが演じたシシィは愛らしかったが、本作でヴィッキー•クリープスが演じたエリザベートは憂鬱だ。憂鬱だが、どうにか自らの精神の自由を求めようとした女性だった。
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