藻類デスモデスムス属

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしいの藻類デスモデスムス属のレビュー・感想・評価

4.0
お互いを訪ねること


前作の舞台挨拶で、「ぬいぐるみと・・」の本がむっちゃいい、という話題で盛り上がっていて、だからその監督が撮ったと知ったときは、おーあのいってたやつだ、撮りたいものが撮れたんだと思って、思ってそれで終わるところだった。その対談では、閉店する喫茶店で号泣してしまった、といったような話も確かしていた。バショだけでなくモノ、河原の小石や落ちている手袋といった、がもつ記憶、そういったモノやバショへの感情移入のようなものが、「眠る虫」には流れていたことに納得して印象深く(実際いまも覚えているくらいで)、けれども同時に、その感性に自分は途中までしかついていけない、という感覚があって、その映画を「むっちゃいい」といいたくてもいえなかった自分が少し残念だったということがあった。本作において、その(自分が途中までしかわからない)感性が散りばめられていること(簡単にいえば作風かな)を想像したし、「ぬいぐるみとしゃべる」というのが、本当に「ぬいるぐるみとしゃべる」ということだと知って、自分はいいかな、と思ってしまった。そこに「サークル」「やさしい」が重なって「内輪」「ぬるい、ゆるい」を連想し、自分が求めているものではないと判断してしまったのか、「ぬいぐるみとしゃべる」ことは自分にはなんだか恥ずかしくてできないから、それをする人になにかの礼儀のように距離をとって、目を伏せ過ぎようとしたのか、その一歩引いてしまった理由というのは、もはやいろいろ混ざってしまって分からない。それでもみる気になったのは友人が絶賛していたからで、そこで初めて打たれているキャッチコピーに気づいて、一転して「これだ!」と思った。揺さぶられるか、掴まれるかするのだと思った。みおわったら、むっちゃよかったよってすぐLINE送って、会社の映画好きな人に次の日会ったらこれすごいいいですよっておすすめする気満々でみて、みおわってどちらもできなかった。

自分が傷つくことと同じくらい、自分が傷つけることに怯えていることを、すごいなと思う。自分はそこに入っていけない。自らの加害性について、「常識としては知っていたけれど」、そうした行動を取らないように気をつけることはできても、そのことに怯えることができない。怯えて、だからぬいぐるみにしゃべる。嬉しいことや、楽しいことをしゃべることもある。そういったやさしさに自分は途中までしかついていけない。他の人がしゃべるのを聞いてはいけないというルールを破って、同時にぬいぐるみの立場として、鱈山や西村らがしゃべるのを自分が聞いてしまうことに、いごこちを何度も直さなければいけなかった。好みとして、自分は、描写から行間を読みたい、でなければ、川のようであるか、はっとするような核心的な台詞をききたい。それは自分にとっての、いごこちのよい、つまり“自然な”、映画鑑賞ということになるのかもしれない。この作品は、思った以上に、むきだしで、直接的な台詞が多く、それが共通感覚として頷けることであれば登場人物の言葉として入ってくるのだろうけれど、頭だけでわかっているようなことであると、投影元の自分が借りてきた言葉のようになってしまって、つまり登場人物に言わせているように聞こえてしまうのだった(もちろん全てではないけれど)。

「わかる、わかる」といえる会話が楽だ。でも、どちらかというと「わからない」会話の方が多い。違った考えをして、違ったものが好きで、違った感性を持っている。だから、みつからない会話の後には、ちょっと横になって回復したい。しゃべることは覚束ない。思ったことや感じたことを伝えようとするとがたごとになって、大切なことは一層しゃべろうとしてぎこちない。であれば、自分が内面化している“自然さ”というのは、むしろ加工したものに慣れ、未加工のものを口に出さず、遠ざけるようになったせいなのかもしれない。ぬいぐるみとしゃべろうとすれば、ぬいぐるみとしゃべる自分をみつめるもうひとりの自分がいて、こんなことをするのは「自分ではない」(=違うもの)と感じる。「自分ではない」に触れたとき、あるいは、直接的な言葉を聞いたときに、いごこちを直し、時に気恥ずかしさを伴うことは、自分の位置を確かめることだろうか。だすれば、この映画は、その位置までは変えない、けれども、こことそこの間に引かれていると思っていた線が実はもうないことに、気づかせるようなものだった。その意味で、自分はいいかな、と思って入らなかったとしても(サークルを見学したみなが入会するわけではないように)、逆にいえば変わらなかったのは位置だけで、その身の置き方や態度は調整を要求されている。「ぬいぐるみとしゃべる」は、実は会話なのだった。会話以上に会話のある作品で、お互いを訪ねること、が描かれていたと思う。その速度が、とても心地よかった。それは実際の歩みのことでもあるし、映画自体の速度でもあった。

「ぬいぐるみサークル」を求めている人、この映画によって救われる人がいると思う。そういった人に届けば素晴らしい。本作に限らず、作品にはそういったマッチングがあるのだろうけれど、ただ、そういった「同じ違う」「合う合わない」「好き嫌い」を超えたものがあれば、つまり求められていないところまで届けばおもしろいよな、ということをときどき思う。自分は傷つかない、しんどくない、たまたま大丈夫。それを「強い」と思ったことはないけれど、どこかで、ほっとしていた気がする。けれども、ほっとしなくていい、ということだった。傷つくこと、しんどいこと、大丈夫でないことが、「弱い」ということではない。「弱いままでいい」というとすれば、それは光や音の弱さような在り方であって、夜明け前の空は真昼の眩しさではなく、ピアノはフォルテではない、ということだった。大丈夫であることにほっとしなくていい、というのはつまり線が消されたのと同じことで、些細なようでいて、大きな転換を孕んでいる。自分はその場所を必要とせず、肩をがしっとされるのでも、胸をぎゅっとされるのでもなかった。それでも、指がほんのかかるように、届いた。手をのばしている。